5月15日の記憶

徳永 博
太平洋戦争後も67年が経ち、戦後世代が政治経済文化の中枢を占めるようになって、戦争の記憶も薄れかけているが、一部戦中派の私には、毎年5月15日が来ると、胸の疼きを覚えないではおれない。それは、米英を相手に戦うという、誰が見ても勝算のない不条理な戦争にわが国がのめり込んでいったのは、1932年(昭和7年)5月15日のある事件を契機としてではなかったのか、との思いがある。昭和維新を叫ぶ海軍将校と陸軍士官学校生徒数名が首相官邸、内大臣官邸等を襲い、犬養毅首相を暗殺した「5.15事件」がそれである。この事件の首謀者の一人に、我が佐高の前身、旧制佐賀中学から海軍兵学校へ進学した海軍の現役中尉三上卓がいたことは、彼が「昭和維新の歌」を作詞作曲したことで、計画者の藤井済、古賀清志以上に世に知られるようになった。
この「昭和維新の歌」は、詠嘆調が時勢に悲憤慷慨する青少年達の琴線に触れたらしく、その後時流に乗って軍国青年の間で愛唱され、今でも時々右翼の街宣車から流れるので、三上卓‐‐佐中の連想で、聞き耳を立てる程である。そこで思い立って、パソコンを使ってその全文を呼び出してみた。
一、泪羅の淵に波騒ぎ 巫山の雲は乱れ飛ぶ 混濁の世に我立てば 義憤に燃えて血潮湧く
二、権門上に傲れども 国を憂うる誠なし 財閥富を誇れども 社稷を思う心なし
三、ああ人栄え国亡ぶ 盲たる民世に躍る 治乱興亡夢に似て 世は一局の碁なりけり
四、昭和維新の春の空 正義に結ぶ丈夫が 胸裡百万兵足りて 散るや万朶の桜花
五、古びし死骸乗り越えて 雲漂揺の身は一つ 国を憂いて立つからは 丈夫の歌なからめや
六、天の怒りか地の声か そもただならぬ響きあり 民永劫の眠りより 醒めよ日本の朝ぼらけ
七、見よ九天の雲は垂れ 四海の水は雄叫びて 革新の機到りぬと 吹くや日本の夕嵐
八、あゝうらぶれし天地の 迷いの道を人はゆく 栄華を誇る塵の世に 誰が高楼の眺めぞや
九、功名何ぞ夢の跡 消えざるものはただ誠 人生意気に感じては 成否を誰かあげつらう
十、やめよ離騒の一悲曲 悲歌慷慨の日は去りぬ われらが剣今こそは 廓清の血に躍るかな。
まだ30代になったばかりの海軍中尉の卓抜した文章力には、ただ感嘆する外はない。人を陶然とさせる名文だ。しかし、数度読み返してみると、はて彼は何を言っているのか、判然としないものがある。果たして「昭和維新」とは、何を目指す運動だったのか。総理大臣や内大臣を暗殺し、警視庁や三菱銀行に爆弾を放り込んで、彼等はその後何をしようとしたのか。
三上中尉が首相官邸に押し入り、犬養首相と対面した時に、首相は彼を迎え入れ、「話せばわかる」と椅子に座るよう促したという。三上はそれを「問答無用」と切り捨てて発砲したのだ。先の海軍軍縮会議の議決に従った犬養首相を憎んで、短絡的な首相暗殺に走ったのか。現役軍人にあるまじき行為である。当時昭和大恐慌と呼ばれた不景気の最中で、冷害に喘ぐ東北地方では、一家離散や農家の娘が売られるなどの悲劇が相次ぎ、貧農の出身が多かった陸士、海兵の生徒の中には、政府要人や三井、三菱等財閥のお偉方が貧乏人の生き血を吸っていると悲憤慷慨する輩が多くいた。それなら、当時国家予算の5割を占めていた国防費を産業振興、国民福祉の向上に回せば、国を富ませ経済恐慌から脱却し、貧民救済に貢献すると考えるのが常識だが、彼等は「権門上に傲れども 国を憂うる誠なし 財閥富を誇れども 社稷を思う心なし」と一方的に決め付け、政財界の要人殺害によって、人々は覚醒するものと思い込んだ。幕末に横行した「天誅」を、昭和の御世に実行しようとしたのだろうか。それとも「君側の奸臣」を排除し、天皇の新政を仰ごうとしたのか。「国を憂いて立つ」気概だけが先行して、その後国をどの方向に導こうとしているのか、この「昭和維新の歌」には、何も見えてこない。
さらに残念でならないのは、当時の世論が5.15事件の首謀者達に同情的で、助命嘆願書が陸海軍法廷及び東京地裁に殺到したことである。前掲「昭和維新の歌」が、国民大衆の心を酔わせて、被告への同情を高めたことは間違いない。それが作用してか、裁判官までもが被告等の赤心に同情し、現職首相暗殺という大罪が、わずか10年の禁固刑で済まされた。司法当局のこの曖昧な態度が、後の「2,26事件」や政党内閣の瓦解、統帥権干犯を盾に軍人政治家が横行する時代を導き、満州事変が支那事変に拡大し、ついには太平洋戦争の泥沼にのめり込んで、国を存亡の淵にまで追いやることになったのだから、我ら佐高の大先輩、三上卓の「昭和維新の歌」は、罪作りなことをしたものである。
人はある歌に陶酔すると、前後のことが見えなくなり、理性では不条理なことが、あたかも可能になるかのような錯覚に陥る。たかが歌、されど歌、というべきか。(2012年5月15日)
 
 
 
 
 
 
 
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昭和維新の歌
石井浩四郎
徳永君の気持ちはよく判ります。佐高時代には「三上卓」が佐中の先輩だということで、2・2・6や5・1・5に大いに興味を持ったものでした。思想は理解しないまま「昭和維新の歌」はよく歌いました。勿論思想に共鳴したわけでもなく、唯ストームの歌の一環でしかなかったのですが、今でも5番ぐらいまではそらで覚えていていつでも歌えますし、よく一人で歌います。寮歌や「星落秋風五丈原」等と同様の私にとって懐メロです。勿論私は右よりではありません。
泪羅も巫山もどこにあるか知りませんが、一度行って見たい気がします。社稷という難しい言葉もこれで知りました。徳永君が言うように時折街宣車が通るとすごい高い音でやっていますね。
(2012/0514 21:38)
泪羅
石井俊雄
汨羅(べきら)とは中国の湖南省にある川の名前で、洞庭湖に注ぐ長江右岸の支流。
中国の戦国時代(紀元前400年頃)、楚の屈原という憂国の詩人・政治家が身を投げて死んだ所だそうです。
屈原の詩は散文詩で、「漁父」という面白い詩があります。 その中で、漁父から泥を被れといわれた屈原は、「どうしてこの清らかな体に、汚らわしいものを受け入れられよう。いっそこの湖水の流れに身を投げて、魚の餌食となろう・・・」 と応えています。自殺願望の傾向があったかも知れませんね。
(2012/0514 23:54)