ふるさとは遠きにありて

徳永 博
先月、中学の同窓会が郷里佐賀で開催されるのを機に、1年ぶりで帰郷しようと思っていたのに、直前になって宿泊予定先の親戚の家の不都合で、それが駄目になり、同窓会幹事のI君や、十年来の「天敵」K君から誰何されたり詰問されたり、散々な目にあった。その時自分のドタキャンの言い訳に思い出したのが、中学生の頃国語の時間に覚えた室生犀星の詩「ふるさとは遠きにありて‐‐」だ。鶴田先生の怖い顔や志津田先生の骸骨笑いを思い浮かべながら、書棚にあった「室生犀星全詩集」を紐解くと、初期の「叙情小曲集」の中に、その詩が、六十年前 I君やK君と机を並べた旧女子師範学校の木造校舎の香りとともに、蘇ってきた。
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや うらぶれて 異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや 
遠きみやこにかへらばや
その時は、「ふるさと」と「遠きみやこ」が、どうして詩人の心の中で葛藤するのか、犀星がどちらを向いて歩き出そうとしているのか、判然としなかった。私生児として追われるように故郷金沢を離れ、東京の下町にわび住まいしていた貧乏書生に比べて、ふるさとの温かみの中にどっぷり浸かっていて、遠きみやこを知りもしなかった中学生に、詩人の心中の葛藤など分かるはずもなかったのだ。
高校生になって、漢文の時間に、中国唐代の詩人李白や杜甫の詩を覚えた。そのなかに、李白の「静夜思」と杜甫の「絶句二首」がある。
庭前看月光 疑是地上霜
擧頭望山月 低頭思故郷    李白
科挙に合格して仕官する夢も破れて、異郷の地を放浪する詩人が、静かな月夜に独りにごり酒を友にしながら唱った五言絶句は、都の大学を目指して受験勉強に明け暮れていた高校生には、充分に理解できる筈もなかったが、「こうべをたれて、故郷を思ふ」という結句には、何故か惹かれるものがあって、それがいつまでも余韻として残った。
江碧鳥逾白 山青花欲然
今春看又過 何日是帰年    杜甫
土屋文明だったか、この唐詩を和歌にして、「いずれ帰らん ふるさとへ」と詠んでいたが、杜甫の遍歴をたどると、この訳詩は間違っている。むしろ、「一度失った官吏の地位を、再び得る為には長安に帰らなければならないのに、妻子を伴って異郷をさまよう杜甫にとって、都への帰還は、春を過ぎてもまた遠い夢になってしまった。」、とする吉川幸次郎の「新唐詩選」の解説の方が正しいようだ。犀星の「そのこころもて 遠きみやこにかえらばや」の心境に近いのではないか。文明がここでわざわざ「ふるさと」を持ち出したのは、李白の「静夜思」の結句「低頭思故郷」が記憶にあって、それに引き摺られてしまった所為か、それとも日本人の感性の中にある「ふるさと志向」が災いしたのか、いずれにしても、我々の年代で「異土の乞食(かたい)」になりかかっている者達にとって、「ふるさと」という言葉は、独特の響きを持っている。手元にある堀内敬三編「日本唱歌集」(岩波文庫)によれば、高野辰之の「故郷」は大正3年尋常小学唱歌に加えられた、とあるから、明治14年に始まる文部省唱歌の歴史の中ではむしろ若輩に属するが、それにもかかわらず平成の今日まで、日本人同胞に一番愛され、歌われ続けている唱歌ではないだろうか。
兎追いしかの山、   小鮒釣りしかの川
夢は今もめぐりて   忘れがたき故郷。
如何にいます父母  恙なしや友がき
雨に風につけても  思いいずる故郷。
こころざしをはたして いつの日にか帰らん
山はあおき故郷   水は清き故郷。
我々佐高八期生にとって、K君が附中ホームページで描いていた郷里仁比山、神崎の思い出以上に、全校生徒三千人の土埃り、豪快なストーム騒動や大学受験のため模擬試験に明け暮れた日々が、思春期のはかない片想いの記憶とともに蘇ってくる。私は片田江通りと貫通道路の交差点に住んでいたので、佐高までは貫通道路の銀杏並木をお濠傍に沿って歩く毎日だった。先月吉岡君が附中ホームページで紹介してくれた県庁前の楠の老木は、私にとっても故郷の思い出として何時も眼に浮かぶ佐賀の風物詩だ。その貫通道路を自転車でまっすぐ西へ半時間程行き、街並みが途絶えて田圃の中、憙瀬橋の近くまで出ると、我が家の菩提寺、禅宗西林寺の屋根と、北天山の霊峰が、何処までも続く稲穂のカーペットの向こうに見えていた。そこからさらに国道を北西に走り、小城という美しい町を訪ね、踵を返して道を東に、尼寺や川上峽に行くのが、高校生の休日の楽しみだった。ある時は古湯温泉を訪ねようと渓谷を遡り、北山ダムの手前でへたばってしまったこともある。再び佐賀市内に戻り、大財町の戸上電機の傍から火葬場の横を通り、高木町から牛島天満宮に出て構え口まで回り、再び貫通道路を東佐賀駅、紺屋町、材木町を縦断して片田江まで帰ってきた。まだ交通量が少なく、ボンネット型バスかいすゞトラックをやり過ごせば、自転車で悠々走れたコースだった。
この「貫通道路」は、江戸時代の城下町佐賀の地図には見当たらない。当時博多から長崎に向かう長崎街道は、構え口から柳町、呉服元町、白山町と鈎状に折れ次第に佐賀城から遠ざかり、八戸溝を過ぎたあたりからまた南西に折れ、憙瀬の近くで今の貫通道路に沿って西に向かって伸びていた。明治期のある時期に、佐賀県令が市街地の地図の上に横に一直線を引いて「貫通道路」と命名した。新宿−立川間の中央線開通と同じ乱暴なインフラ整備だった。それにしても当時の県庁の役人の無粋さよ、「貫通」道路は「姦通」を連想させることを知らなかったのだろうか。時は移り、平成時代になって佐賀市の御役人様達は何を思ったのか、貫通道路のおかげで寂れてしまっていた旧長崎街道を復元することを思い立ち、旧古賀銀行の2階建洋館(旧商工会議所)と旧古賀頭取邸を中心に、柳町の再開発に取り組んできた。明治の初めには旧士族森永作平という御任が、柳町で「富士の煙」というタバコ製造業を始め、川を隔てた馬責馬場に工場を立てた。武士の商法と蔑まれながら結構商売繁盛したようで、大隈重信侯も一時御愛用だったそうだが、国の専売事業化で廃業となり、作平翁は呉服商に転じ、大正時代には森永呉服店として続いていた。その看板が昨年、佐賀市に買い取られ、長崎街道保存地区の一角に飾られている。 しかし幕末期に坂本龍馬や西郷隆盛等多くの志士達が、長崎を目指して駆け抜けた「長崎街道」の頃には,「富士の煙」も「森永呉服店」もまだ無かったはずで、どうも佐賀市観光課のやることは、ピントが外れているのでは、と心配でならない。
このように、鍋島の殿様の城下町時代、貫通道路で近代化を企った明治、大正時代、空襲も免れて、筑紫平野の中心行政、商業都市として歩みながら、次第に時代の流れから取り残され、呉服元町や片田江商店街が寂しいシャッター通りとなってしまった昭和後期、平成時代に至るまで、私の故郷、佐賀は少しずつ姿を変えつつある。曽祖父である作平翁、その娘ツル祖母と祖父の雄二氏、十平伯父とその妹、私の母トシは既に他界して、常雲院や西林寺に眠っている。幼少の頃母の実家に預けられ、雄二祖父やツル祖母のもと、柳町の森永本宅で暮らした私には、観光地「長崎街道」になってしまったふるさとを、見るに忍びない。たとえ、うらぶれて、異土の乞食となるとても、帰るところにあるまじや、という心境になっている。 (2013年6月4日)
 
 
 
 
 
このエッセイは、附中同窓会HPに掲載したものと同文です。(HP管理者)
 
 
 
 
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