「北の都に」

徳永 博
去年10月にこのホームページで紹介した二高寮歌「山紫に水清き」に続いて、旧制高校偶数高の第二弾は、北陸加賀百万石金澤に置かれた第四高等学校寮歌 「北の都に」である。
金澤は戦国時代前田利家の城下町として栄え、その子利長が関ヶ原の戦いで東軍について勲功を挙げたため、徳川家康から、西軍についた弟利政の所領も合わせ102万石と、外様大名としては破格の所領を与えられ、徳川時代北陸の都として栄えた町である。若狭を経て近江に抜ける北陸道の往来によって、京大阪からは華麗な文物が導入され、文化的にも栄華を極めた。前田の殿様が江戸へ参勤交代に向かう時には二千人の家来を随え、往復で7億円ほどの費用をかけ、それでも前田家の財政は微動だにしなかったという。その栄華の跡は市内の兼六園と、江戸本郷にあり今は東大のキャンパスになっている前田江戸藩邸と、その象徴となった「赤門」に残されている。
第四高等学校は1887年(明治20年)文部省令により、東京の一高、仙台二高、京都三高に次ぐ第四番目の高等学校として金澤に置かれ、 1950年(昭和25年)廃校になるまで、幾多の人材を輩出してきた。その中には読売新聞社主の正力松太郎、雪の結晶で知られる北大の中谷宇吉郎博士、 高校は中退したが後に母校の教授となった哲学者西田幾多郎博士等が有名である。またその六十余年にわたる歴史の間に、多数の寮歌が生まれたが、 偶数高のジンクスがここでも働いているのか、二高、六高、八高とともに全国の学生、高校生に愛唱されるものは殆どない。 1990年代に盛んだった「寮歌祭」で正力さん達卒業生が壇上で高歌放吟したのは勇ましい応援歌「南下軍の歌」(明治40年)だったが、 西田哲学のふるさと、文化都市金澤にはあまり相応しくない。いろいろ詮索している内に、 1915年(大正4年)南寮々歌 「北の都に」(駒井重次作詞・金原祐之助作曲)に行き当たった。これは当時の高等学校寮歌としては珍しく 「男女の棲む國」などという艶っぽい歌詞があるかと思えば、その曲も何処かホップ調である。 自分は新制東大卒のくせに「北帰行」や「琵琶湖周航歌」を持ち歌としている加藤登紀子が、 この四高「北の都」までも自分の出身校の歌のように哀調を帯びて歌う姿を、YOU TUBE で発見した時には、呆れてものが言えなかった。 その歌詞を紹介すると、次の通りである。
 
大正4年第四高等学校南寮々歌  「北の都に」
作詞・駒井重次
作曲・金原祐之助
1、北の都に秋たけて  われら二十の夢数ふ
男女の棲む國に  二八に帰るすべもなし
2、そのすべなきを謎ならで  盃捨てゝ歎かんや
酔へる心の吾れ若し  吾永久に緑なる
3、髪は緑の青年が  友情の園に耕ひし
いや生き繁る友垣や  三年の春とめぐる哉
4、竪琴とりて自治の歌  声高らかに奏づれば
三つの城辺の山彦の  今を限りに呼びかへす
5、自由の為に死するてふ  主義を愛して死するてふ
名もなき道を行く勿れ  吾等が行手星光る
6、藻の花ひらくうつし世に  潮の流れ渦をまく
三つの城辺の山彦の  今を限りに呼びかへす
7、氷魂の如吾胸に  抱く心の解け出でゝ
語り明かさん今宵かな  星影冴ゆる記念祭。
明治大正期、エリートとして将来を嘱望されていた旧制高校生が、釣鐘マントに朴歯の下駄で都大路を闊歩しながら歌っていた寮歌の多くは、 今消え去ろうとしているが、この「北の都に」は残って長く歌い継がれて欲しいものである。 旧制高校時代の伝統を守り続け、毎年新寮歌を産み続けている北大恵迪寮を唯一の例外として、新制大学の学寮が左翼のアジトとなったり、 集団生活を嫌う現代学生に見放されて次々と廃寮に追い込まれる中で、 第四高等学校の後身である金沢大学の学生達が、これら「南下軍の歌」や「北の都に」を歌い継いでいるかどうか、今度金沢を訪ねる機会があれば、 尋ねてみたいものである。
 
 
 
 
 
 
 
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