第六高等学校寮歌 「新潮走る」に唄われた桜花

徳永 博
旧制高校ナンバースクールの第六番目、第六高等学校は、1900年(明治33年)備前国岡山に開設された。その前の熊本第五高等学校が明治20年開校だから、その後13年経ってようやく次が誕生したことになる。その間広島と岡山が誘致合戦を繰り広げ、両県の国会議員が議会廊下で掴み合いの喧嘩までしてようやく岡山に決まった。当時我が国は日清戦争(明治27年)から日露戦争(明治37年)にかけて、維新政府が世界の列強に肩を並べる興隆期に当たり、広島は一時期大本営が置かれるなど、軍都として重視されたので、逆に高等学校設置には不利だったのかもしれない。ちなみに旧制広島高等学校は、岡山第六高等学校より24年遅れの1924年(大正13年)の開校である。
第六高等学校の校風は先輩格の第一、第三、第五高校に比べると地味で、卒業生は「忍苦精神」と主張するが、今ひとつ世間受けしない。丁度我が国の興隆期明治末期から大正初期にかけて、日清日露の戦勝気分とは裏腹に、経済恐慌や農村地帯の疲弊から、若者の多くが社会革命思想に憧れ、それを恐れる政府が治安警察法等を乱発して、思想弾圧に躍起になっていた。六高卒業生の中には、後の我が国経済界の重鎮永野重雄、桜田武と並んで、総評議長大田薫の名前が見えるのも、明治から大正期の旧制高校生の波乱の歴史が垣間見える。それを反映してか、各高校の寮歌は明治35年の一高[ああ玉杯」の楽天調から離れて、暗い短調の旋律のものが好まれるようになった。次に掲げる「大正元年第六高等学校中寮寮歌」はその代表的なものと言えよう。特に明治45年の明治天皇崩御は社会に一大衝撃を与え、継位した大正天皇が脳の病気だったこともあり、国民一般の気分が晴れることはなかった。
 
大正元年第六高等学校中寮寮歌
1、新潮走る紅の桜花咲く国なれど
春永久の春ならず梢に咽ぶ風悲し
明治の大帝神去りて世は暗澹の秋の暮
2、嵐の夜にも朝は来て暁に鳴く鳥の声
新星途にまたゝきて曙色杳む六稜に
大正の春明けくれば健児の胸に希望あり
3、「混濁」よそれ人の世か「紛乱」よそれ世の様か
されど悲歌せじ徒に吾等の使命重ければ
市の叫を他所にして永久の理想に進まなむ
4、理想の園は遠くとも輝く星の黙示あり
現世の濤は荒くとも憂ひを分つ友あれば
尊き天職を守りつつ八重の潮路を分けゆかん
5、操山の下草を藉き明けゆく空を眺むれば
暗雲いつか消え去りて曙の色松に映え
今日十三の記念祭新なる世の響あり。
歌の冒頭に「紅の桜花」が出てきたので、多くの人はすぐに明治39年三高逍遥歌「紅萌ゆる岡の花」を連想する。そして当時三高生澤村胡夷が詠った「岡の花」は、桜だろうと思う。京都には古来北野、祇園、醍醐、嵐山等桜の名所が数多くあるし、当時三高の校章は桜だった、というのが、「岡の花=桜」説の有力な根拠となっている。しかし私はこの説に組みしない。この「岡の花」は、道端にある名も無き草花に萌えでた紅ではないかと思う。もし澤村胡夷がこの花を桜だと思えば、冒頭の六高寮歌のように「桜花」と言ったはずだ、というのがその主たる理由である。
もう一つ、万葉集に大伴家持が“春の苑 くれないにほふ桃の花 した照る道に 出で立つおとめ” と咏んでいるように、「紅萌ゆる岡の花」は桃の花である可能性もある。三校生澤村胡夷は、万葉秀歌を諳んじていたから、遠く大和の桃林を想いつつ逍遥歌の冒頭にこれを掲げたのかも知れない。
さらに、我々が日頃親しんでいる「桜花」「そめいよしの」は殆ど白に近い薄桃色で、「紅萌ゆる」という印象から程遠い。だから「岡の花」は桜ではない、と言い切ると、今度は六高寮歌の「紅の桜花」は過剰表現になるのか。
ここで桜の歴史をたどってみると、「そめいよしの」は西行法師が愛でた奈良県吉野の桜ではなく、江戸時代下総国染井村(現東京都豊島区駒込)で発見され接木によって広められた桜の新品種で、明治中期から大正時代にかけて全国に広まったものである。恐らく染井村の植木屋達は、古来有名な「吉野桜」にあやかって、これを各地に売り歩いたのであろう。現代風に言えば「原産地表示偽称」である。そうすると上に掲げた旧制高校寮歌の桜は、寒緋桜、河津桜、紅八重桜、しだれ紅桜等明治初期からあった在来種である可能性が高い。そうして六高寮歌の「紅の桜花」も、「そめいよしの」よりもっと情熱的な紅色の桜花として鑑賞されたのであろう。
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