闇に隠れた佐賀(再掲)

徳永 博
正月の終を告げる七草粥の日、恵比寿に住む叔父が亡くなった。享年93歳,親戚の中で太平洋戦争に従軍した、最後の語り部が逝った。
叔父は一橋大学商科を戦時繰上げ卒業、学徒動員で応召して、海軍経理学校を経て、昭和20年当時長崎県の大村海軍航空隊基地に、主計少尉として赴任していた。結婚したばかりの叔母が病弱で、佐賀市柳町の実家で療養中だったので、叔父は時々祖父母に挨拶がてら、佐賀を訪ねていた。当時の海軍軍人は、濃紺の第1種軍装に短剣を腰に下げ、颯爽と市中を闊歩する姿は凛々しく、それが長身の叔父によく似合っていた。私はこの柳町の実家に、跡取りとして祖父母と共に暮らしていたので、帝国海軍の常備食だった乾パンや箱入のゼリーを土産にやって来る叔父が大好きだった。実家の祖父は佐賀市の消防団の団長をしていたので、当時の都市爆撃や海軍航空隊の活躍などが話題になっていた。小学校1年生だった私にも、話の中のB-29や艦載機はすぐに分かったが、その頃の海軍航空隊は、沖縄戦や本土決戦に備えての特攻機を温存するのが精一杯で、上空を遊弋するB−29やグラマンに立ち向かう迎撃戦闘機などはなかったことは、後になって知った。
ある日、消防団長の祖父が暗い顔をして、私に「今晩佐賀に大空襲があるから、早めに寝ていなさい」と勧め、夜半に祖母に起こされ、防空頭巾を被って、庭の真ん中の、酒樽を横にしただけの防空壕に入った。上空を通過するB−29の大編隊の、低い波長の爆音が殷々と鳴り響くのを聞きながら、その夜はまんじりともしなかった。若い叔母たちは、防空壕から出て、南の空が焼夷弾で赤く染まるのを眺めていたが、幼い私にはとてもそのような勇気はなく、酒樽ならぬ防空壕の中で震えていた。そして何事もなかったかのように、佐賀の町に朝日が輝いた。1945年8月6日、佐賀は無事だった。
米軍による日本戦略爆撃第2期から第3期にかけて、マリアナ、テニアンを基地とするB−29爆撃隊は、日本の中小57都市を爆撃する戦略爆撃作戦を敢行した。この作戦の特徴は、事前に目標となる都市名を記して、日本国民の戦意を喪失させるビラを爆撃の前に散布する「リーフレット心理作戦」を展開したことだ。このビラは大量に撒かれたにもかかわらず、警察や消防団の必死の回収作業で、一般国民に知られることは少なかったし、たとえこのビラを拾っても、すぐに交番に届けないと、スパイ呼ばわりされる非常時だった。しかし爆撃はこの予告通り、正確に目標都市を狙い、8月1〜2日の第13回には679機のB−29が5,127トンの爆弾、焼夷弾を投下し、八王子、富山、長岡、水戸を壊滅させた。その間米軍の被害は、弾倉から出火後行方不明になった1機のみである。ついで8月5〜6日の第14回爆撃は474機のB-29が前橋、西宮、今治、佐賀を襲い、3,696トンの爆弾、焼夷弾を投下、前橋、西宮御影市街地、今治市街地と宇部石炭液化工場を炎上させたが、佐賀に関しては、米軍作戦報告書に何の記載もない。
佐賀空襲を命じられた第58航空団麾下の2軍団68機は、8月5日午後4時にテニアン西飛行場を発進、硫黄島上空を経て午後11時41分から6日午前0時43分までの1時間に、459トンの高性能爆弾、焼夷弾を投下したが、佐賀は燃えなかった。先導機は島原半島の南串山町国東で北北東に転進したが、レーダー・スコープ上の佐賀市の映像は弱く、灯火管制も万全であったので、結局南佐賀の田圃に全弾を投下、農家や鎮守の杜を焼いただけで終わった。まさに闇に隠れた佐賀、その日の数時間後、1発の原爆で壊滅した広島に比べると,佐賀の消失面積0、犠牲者51名は、その該当者には気の毒だが、私を含めた佐賀市民にとっては、天佑と言って良いものであった。この記事は、奥住喜重著「中小都市空襲」三省堂選書149、1988年 に詳しい。
叔父はその後大村基地で長崎上空に立ち上るきのこ雲を目撃し、浦上地区から運ばれてくる死傷者の救護にあたり、敗戦の近いことを予測していたという。復員後、学歴を活かして銀行勤めを続け、東銀支店長、横浜銀行重役等を経た後、一時茅ヶ崎市南湖に隠棲したが、都会地の生活が忘れられずJR恵比寿駅近くの狭いマンションに引越して来て、そこで優雅な余生を送っていた。正月に見舞いがてら恵比寿を訪ねたら、その道の専門家らしく、最近の欧州通貨危機、金融不安を気にしておられた。葬儀は僧侶も呼ばず、家族だけでひっそりと行うそうである。
コメントはこちらへメールして下さい。その際、文中冒頭に「HPコメント」と記して下さい。 Email
 

<コメント欄>   当欄は上記のメールをコメントとして掲示するものです。
佐賀空襲体験「HPコメント」
上野康男*
徳永さんの佐賀空襲の記事を初めて見つけました。参考までに記憶している体験を書いて見ます。 私は当時国民学校4年生でたまたま残している当時の日記帳にもつたない文章の記録があります。
私は佐賀市の水ヶ江大崎に住んでいました。 諸富方面行の国道から八幡宮(当時は城南宮と言っていたように思いますが小さなお宮さんでした) の細い道を西へ入ったっところでした。
徳永さんの文にあるように、当時、佐賀の防空壕は、学校でも、 爆風除けだけの簡単な四角い穴を掘っただけのもので、家の庭にもそのような穴がありました。 しかし、その頃になるとさすがにこれでは危ないというので、父が知り合いの人たちの手も借りて、 庭の畑をつぶして屋根のある防空壕を作ったのです。 借家でしたが隣りの大家さんのご主人は出征中で、奥さんと子供3人、 私の家は東京から疎開してきていた祖母と叔母、父母と私と姉がいました(兄は山口の高校にいました)。 その9人が入れるようにかなり大きなもので、廃材で骨組みを作り、屋根を作り、古畳を載せ、 子供も一緒に土をかぶせてやっと仕上がったのが8月5日(と日記に書いています)。 ところがその夜に、その佐賀空襲があったのです。 子供ですから立派なおうちが出来たような気分で半分は喜んでしました。 真夏の事ですから、子供でも頭巾をかぶって、ゲートルを脚に巻いて掘りたての土の匂いを嗅いだのを覚えています。
夜になると空襲警報と共に、B−29の編隊が飛んできて、焼夷弾を落とし始めました。 はじめは防空壕の中から、空を眺めていましたが、すぐに近所に焼夷弾が落ち始め、 バリバリという音と、火の手が上がり始めました。 すぐに、父の命令で、そばの小さな川に、板を渡して、布団をかぶり、 父がその上から川の水をバケツでくみながらざぶざぶかけて、 2〜30cmぐらいに伸びた稲の田のぬかるみを逃げました。 私は4年生でしたが、もっぱら64歳の祖母の補助役で、手をつないで逃げたのです。 少し離れた空き地で家の方が燃えるのを眺めて、てっきり家は燃えたと思っていました。 朝にになると、父が迎えに来て、家は燃えていないから帰ってこいというのでほっとして帰りました。
燃えたのは、国道沿いの家並みでした。友達の家も全焼しました。国道の東側に盲唖学校がありそこも全焼でした。 私の家の近所はわずかなどぶ川のおかげで延焼を免れたのでした。
しかし、焼夷弾は18本ずつ、2段に36本、鉄板で囲んで落とし、途中でバラけるようになっていたので、 厚い、長い鉄板があちこちに落ちていました。 出来たばかりの屋根つきの防空壕の上やまわりにも、庭のヒノキはその鉄板で見事にバッサリ削られていました。 後で聞くと、その鉄板の直撃を受けて即死した人もいたそうですし、 不発爆弾をいじって爆発して亡くなった子供もあったそうです。
どうして、町はずれが狙われたのかという事ですが、当時の聞きかじりの話では、米軍が昼間に空から測量して、 干満の激しい有明海の事を知らず、計算を間違ったのではないかという事でした。それで農家が沢山被害に遭いました。当時、家財疎開と言って、家の荷物だけを近所の農家に預ける事が多く、近所の人で、預けた荷物が全部焼けて、残ったのは自分たちの身体と家だけだったという事も聞きました。私の家も、いくつか柳行李を農家に預けていましたが、幸い焼けずに、それでも灰をかぶって戻ってきました。

日記帳には書いていませんが、考えて見ると、その翌日に広島に原爆が落ちたのですね。 当時、落下傘爆弾と言い、70年は草も木も生えないそうだと言われたのを覚えています。
今その年になったのですね。
時期的な記憶が確かでありませんが、博多の大空襲は、佐賀の時より何倍も多いB−29の編隊が真上を飛び、 その内に、空は照明弾で巨大な線香花火のように明るくなり、次に、下から燃え上がる火の手を見ましたし、 大牟田の空襲も見えました。
政府は、守るだけで戦争はしないと言ってますが、そんな守り方ってあるのでしょうか。
コメントの返信アドレスが、石井さんになっていて、徳永さんとどういうご関係か**存じませんが、 どうしても書きたくなり、送信させていただきます。 桑原さんのコメントの日付から見ると3年半ほど遅い***ようで申し訳ありませんが、読んでいただければ幸いです。
上野康男
〒562-0023
箕面市粟生間谷(あおまたに)西4-2-36-204
(2014/8/16 21:59)
* 上野康男氏は、佐高第5回卒業の先輩であられます。(HP管理者)
** 石井は徳永君と、中学、佐高の同期生です。(HP管理者)
*** 実は、桑原君のコメントの日付、年の部分を一年古く記してました。それに気付いて今回訂正しておきました。 ごめんなさい。(HP管理者)
コメント
桑原峰征
徳永君のエッセイの一文を新鮮な驚きをもって読んだ。65年前に遠く離れた佐賀と前橋で同じような体験をしていたのだ!!
1945年8月5−6日、徳永君が酒樽の防空壕の中で米軍の空襲に怯えていたその時に、私も前橋でB29による大空襲に逃げ惑っていた。
前橋は8月5日の夜、100機近いB−29爆撃機の焼夷弾絨毯爆撃を受け、市街地の70%を焼失、約500人が死亡。 我が家(借家)も焼失、それが翌年母方の実家(神埼/仁比山)に一家で世話になる遠因になった。
もう少し戦争が速く終結していたら、我が家が焼失していなかったら、こうして佐賀の皆さんと親しく交歓することも無かっただろう。 昨年の大震災以来、縁・絆を想う事が多くなった。
私たち自身も語り部として語り継いで行く必要がありそうだ。(2012/1/13 20:14)