太宰治という作家
平成27年2月吉日 山 下 永 二
私が最初に赴任した所が青森でした。太宰治の小説を読んだ記憶はなかったが、
青森県の出身だということは知っていた。
「斜陽」や「人間失格」などの小説は題名からしてなんとなくニヒルな感じの作家だという印象を持っていた。
九州の佐賀から遠く離れた本州最北 雪国の地に希望と不安を感じながら独りで赴任した。
赴任して間もない23、4歳の頃のある日、津軽平野の真っただなか五所川原市金木町の「斜陽館」を訪れた。
1 「斜陽館」について
津島家の建物は、明治40年 金木町に、太宰の父 津島源右衛門が衆議院議員だった当時に建てられた大豪邸だった。
それは青森ヒバをふんだんに使った木造二階建で、建坪680坪もある広大な規模の施設でした。
外観は、和風だが、中に入ると洋風の応接間や階段があり、
この片田舎では見られなかった洒落た近代的和洋折衷の建物だった。
太宰の死後、昭和25年に津島家は売却し、太宰治記念館を併用した旅館として改装された。
その名を「斜陽館」と命名された。現在は、五所川原市が買取り、
太宰治記念館「斜陽館」として公開されている。
平成16年には国の重要文化財に指定された。
太宰治の小説は、当時もなかなか人気があったのか、女子学生らしい多くの若い女性が見学に来ていた。
近くの芦野公園に行くと、石碑に「撰ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり」と刻まれていた。
赴任したばかりの私はこの言葉に同感を覚え感動した。
この短句は、彼が最初に世に出した「晩年」という小説の冒頭に載っていることを後で知った。
2 太宰治の異端な経歴
本名は、津島修治といい、明治42年6月19日に青森県北津軽郡金木村で
津島家六男として誕生した。青森中学から弘前高等学校文科甲類へ進学、そして東大仏文科へ入学した。
フランス語は分からなかったが、当時仏文科は容易に入学出来たという。
彼は中学時代に作家を志望し、高校では、芥川龍之介の作品に傾倒すると共に左翼運動にも加担して行った。
大学入学して間もないころ、小説家になるために、井伏鱒二に弟子入りし太宰治のペンネイムを名乗るようになった。
プロレタリア小説の影響を受け、共産主義運動にも没頭し授業にはほとんど出席しなかった。
大学は留年を繰り返し授業料滞納のため除籍された。
主な作品は、「晩年」、「津軽」「走れメロス」、「斜陽」、「人間失格」などがあり、
芥川賞候補に二度上がったが、彼の自殺未遂など乱れた生活などから賞からはずされたようだ。
彼は、腹膜炎の痛みをやわらげるために薬物中毒になって、身体は虚弱だった。
高校時代に芥川龍之介の自殺に衝撃を受けて、その影響が大きかったのだろうか、
自殺未遂2回、心中未遂2回、
5回目は、昭和23年6月13日に戦争未亡人 山崎富栄と三鷹の玉川上水に入水して無理心中した。
満38歳だった。遺体が発見されたのが、彼の誕生日の6月19日と同じであったので、
愛好者が、最後の短編「桜桃」にちなんで、命日を「桜桃忌」と名付け三鷹の禅林寺を訪れていた。
今は、遺族の希望により金木町で生誕地にふさわしい「生誕会」として毎年行事が行われている。
3 政治家の家系
- 津島家は、
豆腐売りの行商をしていた。父親 源右衛門は、婿養子に入り、油売り行商と金貸しで
巨万の富を築いて財をなした。大地主となり、県会議員、衆議員議員、更に多額納税により貴族院議員に選ばれ、地元の名士になった。太宰が17歳の時他界した。母親は、病弱だったので、叔母と乳母によって育てられた。乳母竹上タケとの再会については、「津軽」に描かれている。
- 長兄 津島文治は、
私が赴任した当時の
県知事だった。知事三期後、衆議院二期、参議院二期を歴任している。
- 次兄の英治は、金木町長、その孫の恭一は衆議院議員になった。
- 津島雄二は、旧一中、旧一高、東大から大蔵省出身のエリートだが、太宰の長女園子の婿養子となり、後に衆議院議員、自民党税制調査会長、そして海部内閣と森内閣の厚生大臣を務めた。
- 青森出身の防衛庁長官を務めた田沢吉郎は、文治の娘婿である。
このように見てみると、政治家一家の名門と言える。
小説家になったのは、太宰の二女津島佑子と
愛人太田静子の間の娘 太田治子
である。
4 奇異な女性遍歴
太宰治の身長175pで当時の日本人としては長身であった。
写真を見るとマント姿と長髪の風貌は芥川龍之介に似て、今風にいえば、
イケメンだったので女性には相当もてただろうと思う。
彼が関係した女性は、5人である。