大宮と浦和の確執

平成28年8月末日  山下 永二
埼玉県民になって、36年になる。それは、職業柄 転勤が多かったし、 子供が中学へ入る年頃になって単身赴任を覚悟して練馬の官舎住まいから現在の団地に移り住むことになった。 団地の95%が東京へ勤務するベッドタウンだ。好んで埼玉へ来たのでなく、その時の境遇で埼玉県民になった。 俗に、「埼玉都民」といわれる住民だった。
1 大宮と浦和の関係に疑問を持った発端
先日 高校の旅行会の打合せを大宮で行った。久しぶりに大宮に来て、 三十階建ての高層ビルやスーパーアリーナなど大型建物、 そして迷うほど駅自体が大きくなって新宿のような大都会を想わせる街の変り様に驚いた。
これに対し、浦和では、JRに浦和駅、北浦和駅、中浦和駅、南浦和駅、西浦和駅、武蔵浦和駅があり、 これでもかというように浦和を強烈に主張している。 大宮と浦和は、なにか確執を争う歴史があるに違いないと思った。
かねて出雲へ旅をした時、日本政治思想史を専門とする学者 原武史氏の「出雲という思想」を読んだ。 その巻末に「埼玉県の謎」という項目に詳しく記述されていた。 根が深いことが分かったので略して紹介したい。
2 大宮と浦和の関係の歴史的経緯
@ 明治維新直後 明治2年に「大宮県」が設置された。大宮は、埼玉県南部の中心地になったが長続きしなかった。 この時県庁所在地を浦和に移す浦和住民の運動が効を奏し、同年9月に浦和に移され「浦和県」に改称された。
A 明治4年の廃藩置県により、7月藩領に川越県、忍県、岩槻県が誕生、11月に忍県、岩槻県と浦和県が合併して「埼玉県」が誕生した。川越県は品川県の一部を吸収して入間県となった。
B 明治6年には、入間県と群馬県が合併して熊谷県となった。
C 明治9年に熊谷県は解消され旧入間地域は埼玉県と統合され現在の埼玉県が成立した。
D 明治23年に浦和町が正式に勅令により、正式に県庁所在地となった。
E 平成13年 平成の市町村合併政策により、浦和市、大宮市、与野市が合併し、「さいたま市」が誕生した。 4年後に岩槻市も編入合併し政令指定都市になった。
3 大宮と浦和の確執の背後に潜む「伊勢派」と「出雲派」の宗教的対立問題
@ 大化の改新により律令時代に入って、出雲大社の祭神スサノオ、オオクニヌシ、 クシイナダ三神を勧請し大宮に「氷川神社」ができた。出雲の斐伊川にちなんで、「氷川」と社号をつけた。 武蔵国の政治的中心は大宮であった。この頃から、神社の管理は、国造(こくそう)が代々行い受け継いだ。 国造とは、地方の豪族で土地の祭政を取り仕切る、いわば県知事である。
A 8世紀の大宝律令時代になって、武蔵国の政治の中心が府中に移った。
B 近世になると大宮氷川神社の分霊として、荒川及び支流に多く祀られるようになり出雲の祭祀圏は広がっていった。現在 大宮には、中心格となる一宮「氷川神社」があり、埼玉県には162社の氷川神社が存在している。
C 江戸時代に五街道が整備され、大宮は中山道の宿場町でこの地域の政治経済の中心であった。
D 明治維新直後明治元年9月16歳の天皇は、 「祭政一致」のスローガンに基づいて京都御所を発って江戸城に入った。 大宮氷川神社は、「武蔵国総鎮守」とされて間もなく明治天皇は、中山道を経由して大宮氷川神社を行幸した。 これを機に勅祭社(天皇が祀る神社)となった。
このことは、アマテラスを主祭神とする「伊勢派」がスサノオを主祭神とする「出雲派」に頭を垂れ、出雲こそ新しい首都の祭祀的、宗教的中心であることを天皇が認めたということになるらしい。
E 明治3年 参議 副島種臣が勅使として大宮氷川神社を参向した後、明治天皇は、再行幸した。
F 明治4年 神仏分離令により廃仏毀釈運動が行われ、伊勢神宮を頂点とする神社の格式が決定され、大宮氷川神社は伊勢神宮に次ぐ社格となったが「一社一神構想」によりスサノオ一神に定められた。世襲神職制が廃止され、全神祁官は罷免されるとともに国家の役人が宮司、禰宜(ねぎ)等の神職を行うことになった。
このため、大宮氷川神社は、勅祭社としての意味合いが形骸化し、町も衰退していった。
G 明治16年の高崎線開通時、浦和に駅は出来たが、大宮にはできなかった。
町の人々は、神社の用地を氷川公園(現 大宮公園)建設の要請とともに大宮駅誘致運動を展開して、公園が実現した翌年 明治18年東北線、大宮〜宇都宮開通時に大宮駅が出来た。
H 明治27年に出雲国造の子孫 千家尊福が埼玉県知事に就任した。大宮氷川神社にとっては、オオクニヌシとクシイナダヒメの合祀が認められ、維新以前の三神に戻った。祭事は出雲の神々に対して祈りや感謝の念をささげられ、埼玉県の中心は大宮であった。明治30年末以降、大宮が浦和に代わって、県庁所在地の候補として浮上したが、実現できなかった。
I 大正時代になって、明治神宮ができ、大正天皇を埋葬する多摩稜、明治天皇を顕彰する聖跡記念館が相次いで創設され、アマテラスの子孫に守護された帝都が昭和初期までに成立した。このことは、伊勢派が帝都を守護する「国家神道」が確立し、出雲の神々はたそがれの里へと変容して行ったことを意味する。
4 最後に
・ 大宮は再三 政経・宗教の中心でありながら、宗教政策によって盛衰を繰り返し、 ついに浦和から県庁所在地を奪いとることができなかった。 現在の大宮は、東北、北陸、 北海道新幹線の中継地点で「経済中心地」として宗教都市から脱皮し商業都市へ発展している。 対して浦和は「文化・教育の中心」として大宮を牽制し県庁所在地を譲らなかったのであろう。
・ 今も伊勢派や出雲派の対立があるとは思えないが、大宮も浦和も地元住民は潜在意識が残っているかもしれない。現さいたま市名候補に「氷川市」の名があったが22位であったという。 著者は、宗教的視点から埼玉の謎を解釈した処が面白かった。
・ 埼玉は、「彩の国」という感じのよい表現をする人もあれば、「ダサイタマ」と揶揄する人もいる。 埼玉の高校野球、熊谷深谷高校のラグビー、プロサッカー 浦和レッズや大宮アルディージャ、 プロ野球 埼玉西武の応援など必然的に県民意識は次第に芽生えてきた。
人生の約半分をここで生活し、趣味の仲間もでき、これからも住み着いてこの地で骨を埋めることになるだろう。
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