日本と西欧諸国の発想の違いについて

石井ト
 
コロナ禍で、ここ1年、世界は振り回された。 アメリカやイギリス、又イスラエルでは、既にワクチン接種がかなりの数に至っている。 わが国でも、緊急事態宣言が出され、国民一眼となって、その対策にあたってきたが、ここへ来て、わが国でも、収まりかけてきたようだ。 6府県では、明後日までで、解除が決定されたりしている。
そんな状態だが、この様子を見ながら、このコロナに対するわが国の対応と、西欧諸国の対応の違いに思いを馳せてみた。
小生の見たところ、対応の本質は、日本の場合、人力に頼るというのがその本質だと思う。 一方、西欧諸国の対応の本質は、人力もあるが、その本質は道具に頼るだと思う。
対応がそのようなものということは、事に当たって如何に対応するかの発想が、日本人は先ず人力による解決を目指し、西欧諸国では道具による解決を目指すとなる。
従って、日本の場合、マスク、手洗い、三密、など、人の注意力などの人力にデペンド(依存)した対策が初めから考えられ実行され、ワクチン開発は話題にもならなかった。 一方、西欧諸国の場合は、「道具」にデペンドした対策が実行され、それは具体化されてワクチン開発となった。
ここに彼我の発想の端的な違いを見ることができる。過去に例示すれば次の通りだ。
  1. 例えば、運搬問題への対応として西欧諸国は蒸気機関車という道具を発想し、一方の日本は人力車という人力に頼った発想をした。
  2. また、武器を挙げれば、西欧諸国は剣の次に鉄砲を産んだが、日本では、剣を研ぎ澄ますことに情熱を費やした。
  3. また、楽器を見れば、わが国は概ね中国由来の楽器を上手に使うことに情熱を注いだが、西欧諸国は例えばパイプオルガンのような大きな機械仕掛けの楽器を発明した。
  4. また、先の大戦において、ナチスドイツは、V1、V2という大陸間弾道弾という道具を作ったが、わが国は、特攻兵器という人力依存の発想しかできなかった。
  5. また、お寺の鐘。わが国のは人が一本の木の棒で一個の鐘を突くという人力型だが、西洋のは、複数の鐘を並べ、複数の金属の玉で打つという機械装置である。 この例が、道具発想の欠如を雄弁に語っていると思う。何故、複数の鐘を思いつかなかったのだろう。多分、一人の人力では手に負えないからだろう。 この、人力で手に負えないと思ったところで発想が停止するのが日本型発想の特徴だろう。眞に倭人だよね。気宇まで小さいのだから。
どちらがいいかその優劣は、少なくも道具を発想する方が一枚上だと思う。歴史的にみても、人類は道具を使うことでホモサピエンスとなったように、 人力に期待する場合の進歩の速度に比べ、道具に掛けた進歩の速度は、革新、即ちイノベーションを齎すのだ。
以上から、我々日本人は、事に当たって人間を磨くという発想しかできないと言える。 一方、西欧諸国の人間は、事に当たって道具を作ろうと発想する。
私は、道具も発想すべきだと思う。人力だけでは飛躍がないからだ。
日本人を一言で言えば、「器用」ではないだろうか。器用だから、その範囲で終始してしまうのだ。だからイノベーションは起こらない。 寧ろ不器用なのが道具に頼るという発想に繋がる。器用なだけに日本人は道具を作るという発想はしない。 道具に頼る楽行を恥じとし、苦行を礼賛する文化の所為だろう。・・・直さないといけない。
例えば、昔、ある日本人がパイプオルガンを発想したとする。だが、多分、常識ある人々によってたかって潰されただろうと思う。 機械オンチと安定思考の為せる悪行だ。
その器用さが、明治維新や経済大国を齎したが、その成果を齎した道具は自ら発想したものではなくコピーだった。その結果、一から作るという発想を失くしてしまった。 眞に、今回のワクチン行政は、その外国依存発想がもたらしたものと言えるだろう。・・・だから道具(仕掛けでもいい)も考えようとしなければならない。
人力発想は、人力と成果の2次元世界を作り、人力と道具と成果が齎す世界は、3次元世界を作る。 今の日本は、2次元世界にある。早く3次元世界に踏み出さないといけない。
我々日本人は、3次元世界という世界を知らない。この稿では、人力、道具、成果、の三次元を考えたが、この道具を「神」に置き換えると解るだろう。 わが国には、超越者という意味での神はいない。超越者としての神は、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、では絶対神がいる。 だから、西欧諸国の人々は三次元世界には馴染んでいたのに対し、我々は馴染みがなかったのは当然かもしれない。 我々は、事に当たって、道具次元を発想しよう!道具と人と成果の三次元世界に生きようではないか。可能性がぐっと拡がるから。
何故、道具次元がないのか、それは、歴代中華帝国の文系重視の官僚思想にあると思う。それは、彼らを選抜した科挙の試験問題の主要部分が詩文だったことが証明している。 彼らは、文系の学問を重視し、理系の技官を蔑視した。 その影響で、わが国も文系重視が続いている。文系の欠点は、人ばかり見て道具を発想はしないこと。発想しようにも道具を知らないし、知ろうともしない。 誰かが作るものだと思っていて、自ら作るなんて発想はしない。要するに機械オンチなのだ。
欠けているのは、インテリジェンス(知性)だろう。それがあれば、先の戦争も起こらなかっただろうし、特攻も無かっただろう。 今こそ賢者、即ちワイズメン("wise men")が望まれる。埋没しない賢者の群が必要。
日本人が3次元世界という世界に馴染みがないことについて少し書くと、今回のコロナ禍に対する専門家の取扱い方を考えてみよう。 行政府の首脳たちは、専門家を専門知識を持つ人達と捉えている。あくまで、並みの人の一人との捉え方だ。 だから、ここでも、見てる世界は、人と成果の2次元世界となる。 若し、専門家の言を事実と捉えるなら、人と事実と成果の3次元世界となる。事実次元は、神、道具、専門家、などが当て嵌まる。 わが国の専門家、或はその意見を聞く為政者、この連中は、専門家の意見を事実とは捉えないし、専門家も参考意見を言うというほどの意識であるように見える。 だから、専門家を含めた会議の打ち出す対策は、並みの人間の妥協の結果となる。 専門家はもっと腹を据えて自らが信じる考えにこだわるべきだと思う。さもないと専門家とは言えないだろう。
「百年兵を養うは一日これを用いんがためである」とは、山本五十六の言だそうだが、皮肉にも、結果は惨憺たるものだった。 時間を掛ければいいというわけではないということだ。 事実をちゃんと見るということこそ王道だろう。 専門家とそれを聴く人の事実へのリスペクトこそ大事。要するに、事実(この場合専門家)・人・成果の3次元世界に住まなければならないということである。
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