盆明けの希望

2020年8月16
石井ト
今日は、盆明けの8月16日、昔の藪入りだ。
お盆でもここ3日、盆提灯を掲げ、母がのこしたメニューに従ってお供えしたり、この3日間は身を慎んだりして過ごし、 今日の盆明けで、何となく心が落ち着いた感じでいる。 昔は、今日を藪入りと言ったそうだが、それも心落ち着くしきたりだよね。
そんな中、今朝、YouTubeから、"Christian Inspirational Songs"という括りで数曲の音楽が舞い込んできた。 宗教歌ではなく歌詞は全て英語のカントリーミュージック風の癒し系の音楽だ。 だが、ハレルヤと歌うのあるから、宗教歌と言えるだろう。 それで、聞きながらふっと思ったのは、仏教には音楽が無いということ。 音楽は言葉より直接人間の感性に訴えるというのにだ。
ましていわんやわが国のお経は難しい。 だから、お題目を唱えるだけでいいなどと、妥協じみたことをしている。ロゴス(言葉)の限界を露呈しているのだ。 そんなことするくらいなら、何故音楽に訴ええないのか!と思ふ。 仏教は音楽を取り入れるべきだよね。そう思いませんか?
私は思うのだが、わが国をはじめ東洋思想にはメタ視線という捉え方がない。 メタとは、ギリシャ語で「超越した」、「高次の」という意味ので言葉だ。詳しくは次を参照のこと。
「メタ」は元来は古代ギリシャ語で「あとに」という意味で、「超越した」、 「高次の」という意味で「メタ」が用いられるようになったのはアリストテレスの『タ・メタ・タ・ピュシカ』、 直訳は『自然に関するものの後に』だが、通常は『形而上学』と訳される)という書物に起源を持つ。(ウイキペディアより抜粋)
我々には、メタが無いのだから、未だ我々は自然に関するものの中で終始してることになる。 思えば、音楽・ドラマ・小説・絵画・等々の芸術活動やスポーツ活動にメタ視点はない。 ・・・いつも、恨みつらみ、勝ち負け、人気、が表に出て喚いている。
そんな世界から抜け出すためには、自然(ピシュカ)のあとにあるメタな世界に進まなければならない。 メタピシュカ開眼である。
仏教と音楽、どうしても親和性があるようには見えない。何故なら、音楽は歌舞音曲という括りで遊興の具扱いされてきた。多分、儒教系の影響だろう。 だが、メタな視点に立って、宗教音楽などを作って欲しい。・・・お題目唱えるだけでは曲がないから。曲とは感性に訴える手段ということ。 ヘタ(下手)でもいいからメタな宗教音楽、ムジカ・メタ・ピシュカ、聴きたい・・・音楽家にとっては狙い目だろうし、私にとっては盆明けの希望である。
・・・「希望のささやき」にリンク張っておきます。こんな感じの曲がいい。ここをクリックのこと。 ジョー・スタッフォード、懐かしい。
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