終戦の日・思い出

2020年8月15日
石井ト
今日は、8月15日、終戦の日だ。
当時、小生は昭和13年4月10日生まれだから、7歳と4か月の餓鬼だった。 大した事も憶えてないが、その日のことを思い出して書いてみる。
当時、私は佐賀市水ケ江の横小路というところに避難していた。避難したと云っても、元のとこから歩いて10分ほどのところだ。
当時、空襲警報が一日の内に2〜3回あった。鳴り出すと、あっ又か!という感じで、聊かげんなりする日の連続だった。
当時の経験で一番は、空襲があるとのことで、家の南裏を流れる川(多分、多布施川。県病院の中を流れてくる川のこと) の川淵を覆う竹藪(女竹だが)中に蚊帳を吊って、寝たことだ。空襲真近となると、防空頭巾を被り多布施川の水に布団を濡らせて掛けられたことがある。 多分、水ケ江辺りに焼夷弾を落とされた時のことだと思うが、焼夷弾の落ちた地点と私の居た横小路の家とは、1kmも離れてないと思うが、竹藪で覆われいて、 空襲や焼夷弾の落ちる様などは目撃できず終いだった。今から思うと幸いだったのだ。
そんな経験で、聊かうんざりする空襲警報警戒生活だったが、ラジオでは、大本営発表が延々と戦果を報じていた。毎日、敵空母、戦艦、何隻撃沈・・・という具合に。 小生、子供心に敵の空母や戦艦が、あれだけ潰したのによくあるものだ、と感心し、未だ続くのだと思ってうんざりしていた。 まだ、嘘を報じていることは知らなかったのだ。
そんな中、ある日、朝から何となく静かな感じでいたところ、正午、昭和天皇の玉音放送があった。 ラジオを玄関の前に出し、大人が数人集まってきて神妙にラジオ放送を聴いた。 私も聴いたが、何云ってるのか分からなかったが、終わって暫しして、男の誰かが呟いた「負けたのだ」と。
小生、戦争が終わると聞いて正直ほっとしたのを憶えている。 空襲に怯える日が無くなるかと思うと嬉しかったのだ。 負けたことの結果起こる事態については何も知らずに、ほっとした。 青空が高く澄んで見えたような気がした。
その後の記憶は、米兵を生まれて初めて見たこと。
朝日館の前に米軍の施設、名前は忘れてしまったが、があったこと。
附小の前にある測候所の前に米兵の立哨兵が2名、銃を立てて立っていたこと。その前を通るときじろじろみたが、 向こうは我々を無視して身じろぎもしなかったこと。 私の外、確か今泉弘子さん(新姓杉本:去年4月逝去)と末安だったかな?はっきり憶えてないがもう一人いた。帰り道が同じでつるんでいたのが。
米軍の偉そうな将校から、チョコレートをもらったこと。 それを、兄弟で分けるとき、平等に分けたことに憤慨したこと。俺がもらったからというわけだ。
測候所の立哨は1〜2月もしない内にいなくなった。少しがっかりした。何しろ恰好よかったから。 戦時中、日本兵が数十名、楊柳亭の裏口の通路で休憩していたのを何回か見た。銃を三本づつ立、しゃがんで弁当食ってたが、格好いいとは思わなかったな。 珍しかったが。
それから、終戦後、馬肉を食ったこと。軍用馬が要らなくなったのだろうか、馬肉が出回っていたようだ。 私は、そのステーキが好きでよく食べたものだ。お袋は食べたいというと嬉しそうにしていた。 何故嬉しそうにしてたのか理由が分からなかったが、今にして思えば、子が食べたいと云って食べてくれるのは子供の成長に繋がるから嬉しいのだと解る。 この感情は、子を持ってこそのものだよね。 そんな母の思いのおかげで、今年82歳だが、元気でいられるのは馬肉の所為かもと思っている。
馬肉はもう食べないが、馬油にはお世話になっている82歳である。
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