鎌倉附中同窓会記

H24/5/18
石井俊雄
去る5月15日〜16日、標記のイベントが行われました。
5月15日は、北鎌倉の円覚寺を観光し東福寺の山門脇にある「吉野」という喫茶店での休憩。 最後は、ダイヤモンド・ソサイエティーホテルでの宴会と宿泊です。
小生は、5月15日だけの参加でしたが行ってきました。
とりあえずその写真を掲載しますが、附中同期生には広く稿を寄せてくださるよう依頼していますので、段々集まってくると思います。 到着次第、順次記載していきますので、今後ともよかったらご覧ください。
 
 
円覚寺の総門を入って先ず目に入るのはこの山門です。時刻は13:35分くらい。
鎌倉と云えば、文部省唱歌「鎌倉」が浮かびます。 その歌詞の最後は8番で、
建長(けんちょう)円覚(えんがく)古寺の
山門高き松風に
昔の音やこもるらん
と歌われますが、その円覚寺に来ています。
普通は、5番までくらいしか歌わないので、こんな歌詞は知らないと思うけど、鎌倉ときけば歴史を思います。 その歴史も、何処となく悲劇の香りを漂わせるもの。当に、「昔の音やこもるらん」ですね。
心ならずも甥の公暁(くぎょう)に殺された実朝、頼朝に粛清された義経、同じく頼朝に殺された義経の忘れ形見、鎌倉鶴岡八幡宮社前で踊った静御前。 また、新田義貞軍に負け自害して果てた北条一門総勢二百八十三人と鎌倉幕府の滅亡、元寇のこと、などなどの遠い歴史の軋みが聴こえるようでした。
だけど、新田義貞軍に負け自害して果てた北条一門総勢二百八十三人と鎌倉幕府の滅亡など、世界史のレベルで見るとささやかなもの。 陳舜臣著の「日本的中国的」によると、「日本は海に囲まれて、すくなくとも有史以来、異民族の大規模な侵略は受けませんでした。 戦国といっても、たかだか内戦です。異民族の侵略にみられる、徹底的な破壊というのがありませんのでした・・・」 となるのです。
ちなみに、ジンギス・カーンが当時(西暦1211年頃)の中国の金を攻めたときには、 当時5000万人ほどいた中国の人口が、 わずか30年後に行われた調査によれば約900万人ほどになってしまったというから虐殺の規模がうかがい知れるというものです(ウイキペディアより抜粋)。 そうなったら、このような叙情歌どころではなかったでしょう。
この叙情世界がかなりローカルであることも知っておくべきかも知れません。授業では余り生々しい話はしませんからね。
 
 
階段を登って山門の足元を見た写真です。
 
 
 
山門を抜けると直ぐ仏殿があります。この写真はその中の本尊「宝冠釈迦如来坐像」です。
 
 
 
 
 
選仏場前にて撮影。選仏場とは座禅を組む場所だそうです。
 
 
 
 
 
「居士林」の門前にて。
「居士林」とは、在家修行者の為の専門道場です。「居士」とは、在家の禅の修行者を指します。
 
 
 
 
 
今回の幹事長を勤めて下さった石井浩四郎君です。なにやら嬉しそうなので掲載しました。
 
 
 
 
 
円覚寺観光を終って総門を出るところです。時刻は14時40分頃。
 
 
 
 
 
喫茶店「吉野」で撮影しました。カメラのレンズが曇っていたので、少し雲がかかっています。
この店は東福寺門前にある喫茶店です。中々いい雰囲気でした。
東福寺は所謂「駆け込み寺」だったとか。
そういえば、ここの入る前にどうしても東福寺に行きたいという方がおられましたね。
もう用はないだろうと思っていたのに・・・。
 
 
 
 
 
ダイヤモンド・ソサイエティーホテルでの宴会を出るときのショットです。
小生だけ、先に失礼しました。時刻は19時50分ころです。
 
 
 
 
 
ダイヤモンド・ソサイエティーホテルでの宴会を出るときのショットです。
 
 
 
 
 
ダイヤモンド・ソサイエティーホテルでの宴会を出るときのショットです。
 
 
 
 
最後に、文部省唱歌「鎌倉」を聞きながら終わりにします。
作詞:芳賀矢一、作曲:不詳。その歌詞を5番まで記します。 音はここをクリックしてください
  1. 七里ヶ浜の磯づたい
    稲村ヶ崎名将の
    剣投ぜし古戦場

  2. 極楽寺坂越え行けば
    長谷観音の堂近く
    露坐の大仏おわします

  3. 由比の浜辺を右に見て
    雪の下道過ぎ行けば
    八幡宮の御社

  4. 上るや石のきざはしの
    左に高き大銀杏
    問わばや遠き世々の跡

  5. 若宮堂の舞の袖
    しずのおだまきくりかえし
    返せし人をしのびつつ

一番の歌詞は、新田義貞軍の鎌倉攻略を歌っています。2番は、2日目の順路の鎌倉大仏ですね。 3番4番は鶴岡八幡宮での右大臣就任拝賀の儀を終えて石段を下ってきた3代将軍実朝が、 大銀杏の陰から飛び出した甥で前将軍頼家の遺児・公暁によって暗殺されたことを歌っています。
5番は、源義経の愛妾・静御前を歌ったもの。 義経が兄頼朝と不仲になって京都から脱出したとき、静もこれに同行。 しかし、翌年吉野山で義経と別れたのち捕らえられ、鎌倉に送られた。 都第一と歌われた白拍子(しらびょうし)の舞を見たいという頼朝・政子夫妻の求めにより、鎌倉鶴岡八幡宮社前で踊ったが、 そのとき歌ったのが、義経を恋い慕う次の和歌。
しづやしづ賤(しず)のをだまきくり返し昔を今になすよしもがな
頼朝はこれを怒り、「殺してしまえ」と命じるが、政子がそれを諌め、髪を下ろすことで許された。 同年7月静は義経の子を出産するが、男児であったため、即日由比ヶ浜に沈められてしまった。 そののち静は許され、京に帰された。以後の消息は不明だが、故郷の磯村で小さな庵を結び、義経と殺された子の菩提を弔い続けたと伝えられるそうだ。
鎌倉はこのような歴史こそが面白い。小生は2日目欠席でしたが、皆さん如何でしたか? 「露坐の大仏」、「由比の浜辺」、「大銀杏」、「若宮堂」などなど・・・訪ねし世々の跡々は?
 
 
少し付け足しましょう。
今朝の新聞(5/19)で、ドイツの世界的バリトン歌手 ディートリヒ・フィッシャー・ディースカウ氏の訃を報じていました。 また、NHKの昼のニュースは彼の歌うシューベルトの「冬の旅」 は超名盤だとも言ってました。 それを聴いて、円覚寺境内にも菩提樹が繁っていたのを思い出したのです。
これも何かの縁かと思うので、 その中から「菩提樹」を聴いて鎌倉の思い出としましょう。
それからもう一つ、戦前のドイツ映画「未完成交響楽」で村の娘さん達が洗濯しながら歌う「菩提樹」が思いだされます。 それも、探してみますね。・・・見つかるといいけど。・・・見つかりました。案外あっさりと。 興味ある方はここをクリック下さい。
菩提樹は、釈迦がその下で悟りを開いたということで知られていますので、その由来から、寺院の庭園などによく植えられるようになったとか。 しかし、このサイトの後半、マルタ・エッゲルトが歌うシューベルトのセレナーデを聴くと悟りどころではありません。
何故なら、ウイキペディアに依ると、 「セレナーデ(ドイツ語: Serenade)は音楽のジャンルの1つであるが、一般的な言葉としては、恋人や女性を称えるために演奏される楽曲、あるいはそのような情景のことを指して使う。」 とあったから。
その上、この声少し扇情的だが素晴しい。
 
 
右上の大きな葉っぱの木が菩提樹です。
 
 
 
 
 
 
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