佐賀近辺点描(2)ー故郷感情紀行−

 
桑原峰征
(今回が、最後の合同同窓会、今後佐賀を訪れる機会が無いかもしれないとの思いで、今回だけでなく長崎・大分時に立ち寄った際の経験も加味して、独りよがりの饒舌駄文となりました。私は中学3年生の時に佐賀を離れました。従って往時の記憶は14歳時点までの古い記憶に凝縮していますので、どうしてもその濃縮された記憶との対比になっていまい勝ちです。みんさんの記憶とは多少異なる点があるかと思います)
  1. 福岡空港から佐賀市へー西鉄高速バス
     
    1. 国内線乗り場から高速バスに乗り込んだのは、私ひとり。途中で2-3人の乗客を拾って一路佐賀へ。 都内私鉄のパスもPASMOが利用可能、便利になったのに驚いた。ただ、運賃は1200円。バスの高速代金はかなり高額の筈。この乗客数で採算は大丈夫か、次回訪問時までつぶれないで大丈夫か?
      それに、数年前の同路線のバスハイジャック事件が頭をよぎる。この人数の乗客では、どんな対応になるのだろう。
       
    2. 高速道路に入ると間もなく三養基入り口。小学校時代に手製の橇を携えて草橇スキーではしゃいだ岡はどの辺りだったかと眼をこ凝らすも判然とせず、あっという間に通過。やがて鳥栖の標識、佐賀県に着いた! 三田原(みたばる)から神埼、吉野ケ里(よしのがい)が近い。吉野ケ里は母の生まれ故郷の右原(みぎばる)からすぐだ。この地区には、「・・原」、「・・・里」とつく地名が多く、「原」は”はら”でなく”ばる”、「里」は”り”ではなく”い”と発音するケースが殆ど。例えば「石井が里(いしいがい)」。そして脊振山を背景に、戦後一年余りその麓で過ごした懐かしい日隈山が見える。
       
    3. 佐賀市に入ると高木瀬。高木瀬沿いの道は、舗装なしの車が通るたびに土ぼこりを舞いあげ、両側は一面の田んぼだったのに今や建物ばかり。全国いずこも同じ街道沿いの風景、残念。そういえば、小学校の遠足で佐賀駅に集合した時も舗装がはげた雨上がりの溜まり水を避けて歩いた記憶が蘇る。そういえば、雨の日裸足で通学したこともあったな〜。北へ上ると川上に通じる筈。
      今では、どこへ行ってもアスファルト舗装道路。舗装と云えば貫通道路:沿道沿いの田畑に数多く見られるクリークは貫通道路造成のための材料として掘られたと聞いた。戦争との関わりは無かったのか。徳永君のHPへの寄稿エッセイでも昭和20年8月の原爆投下前後に、佐賀地区にも空襲があり、同時期にも私が住んでいた前橋にも空襲がったことを知った。佐賀は殆ど無傷であったが、前橋は7-8割の家屋が焼失。それが私一家が父母の故郷に戻った機縁。
      佐賀の地名は、昔のまま変わらぬのがいい。材木町、大財町、唐人町、紺屋町、城内、水ケ江、赤松、中の館などなど地名を聞いただけでも昔の成り立ち、職業・産業区割りが窺い知れる。花房小路や横小路、などの小路名は残っているのだろうか、どうだろう。因みに、私の前戸籍は、親父のそれを継承して「藤津郡五町田新村大字Z・・・」と地形まで分かるような表示、現戸籍は無味乾燥な数字の羅列。
       
    4. 子供の頃、わくわくした日峰さんのお祭り、松原マーケットの賑わい、近くの図書館などの今昔はどんなだろう。
      我が家近くの市民球場で見たプロ野球のスタルヒン(だった筈)、佐賀の花率いるニ所が関部屋興業での若き日の初代若の花、大和紡支店長社宅(級友は高柳君)で聞いた白井義男のボクシングラジオ放送、NHK志村アナウンサーによるプロ野球放送などなどスポーツに目覚めたのもこのころの事。佐賀にも未だ進駐軍がいて、朝日映画館の前の旧鍋島邸に陣取っていた。 
       
    5. 思い出の中の”かっくんちゃん”、本当に食べ物に砂をまぶして食したのだろうか。その後日談は? また、忘れられない方言の今は健在かな、(ふうけもん、とぜんなか、ねまる、はがいか、はらかく、びっき、へぼなどなど)は蓮とともに死滅してはいまい?町の近代化に伴い、土地に根付いた伝統、因習、言語文化なども知らず知らず変わり忘れられる。75年の自分の中でも間違いなく同様な変化が起きている。
       
    6. 佐賀空港に代表される巨大インフラ、郊外の大型ショッピングセンター、立て替えられた近代的建物群、これらは全く故郷ではあり得ない。
      その意味では、佐賀市そのものが私の脳裏に残っている昭和28年(1953年)当時に比べると駅の移転を始め、全くと言っていいほど新しく馴染みの無い街に変貌していて、遠望する脊振の山並みや街を流れる川やお濠、楠の並木などの自然物以外は、およそ懐かしさを覚えない(今でも昔と余り変わらない往時住んでいた家とその近辺はさすがに懐かしいが)。整形・プチ整形にたいする忌避感と似た感情。得るものと失うもののバランスが難しい。矢張り故郷は遠く離れて、しかも実は存在しない過去の故郷像を脳裏に浮かべて余韻に浸るものなのかも。
     
  2. 神埼・肥前山口など
     
    1. 神埼駅には、吉野ケ里方面の北口出口が新設。2F改札前に利用者用の木製長椅子が備えてあり、座布団が設えてあった(おもてなしの心)。北口に降りるとタクシー乗り場にはタクシーはなく、「御用の向きは、・・・にお電話下さい、すぐお迎えにあがります」の立て看板。初めての経験。町から市に昇格した割には利用者が少ないようだ。南口の駅前も以前と余り変わらず人影もまばら。
      嘗て、戦後数年仁比山から神埼駅まで砂利道を木炭を炊いて走る木炭バスに乗り合わせたことを思い出した。そして学校出たての幼さが残るおさげ髪の車掌さんが印象的だった。脊振山の上に白い雲が湧きあがって、BGMには当時流行った岡本敦郎の「白い花の咲くころ」のような風情(だった筈)。
      一年あまり住んだ右原の部落はまるで箱庭のようで、タクシーも通れない細い道。魚とりに興じた小川もよくぞこんな小さな小川でと。ただ当時は戦後間もなくの正に国破れて山河あり、荒れ果てた自然そのままの状態で、至るところに蛇や蛙やカニなどの生き物がわが世の春を謳歌していた時代。
      仁比山小学校の先に仁比山仁神社があり、そのもっと先には師範出たての若い教師の父母が出遭った脊振分校があるはず。80年前のその出会いが無ければ私は存在しない。
    2. 肥前山口はパスモは使用不可。未だ佐賀駅以西は未整備。駅前には店らしい店もなく人影も見えない。駅前の待ちタクシーに乗る。運転手がぼやく「ここも大町もさびれて、商売にならない。夜遅くなっても家族が駅まで自家用車で迎えに来るし(地方では車が必需品)。
      長崎本線は、山口以西は単線で、長崎からの特急でさえ各駅で対向電車待ちが多かったことを思い出す。のんびり旅行が楽しめた。
 
そろそろ旅も息切れ、終わります。
同窓会に病気や、旅行などのケースを除き、10回近く参加できた。 そこで得たものは大きい。とりわけ、参加することで事実上知己となった多くの友人たち。私は、附属小学校に附属中学校に転入、小学校には3年生の秋からの転入、それまでは敗戦を契機に仁比山小学校に2年生の6月から一年あまり、
付属小学校では卒業するまでの3年半は組替えなしで隣りの組のメンバーとは殆ど交流なし。同窓会参加で、多くの知己を得た。短い旅行会での触れ合いを通じ、相通じる人生。何よりも同じ時代の空気を吸い、時代背景を持ち、説明する必要のない知り合いが多いというのは実に有り難い限り。
今思えば、退職後の充実した人生は、病気で知り合ったあらゆる世代の仲間と、同窓会旅行を通じあらためて絆を深めた旧友たちに依るところが大。
竹内まりあの「人生の扉」でも聴くとするか。
 
 
 
 
 
 
 
 
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