太平洋戦争の語り部

2022/8/15 石井ト
今日は、太平洋戦争が終結した日だ。
ことさら、書くことも思いつかず、この日を迎えたが、最近では、戦争語り部の数が減ってるという現実を訴える報道が多いらしく、 今朝の毎日新聞でも、一面トップに「戦争語り部後5年」の文字が躍っていた。 考えれば、小生も、7歳の時に終戦を迎えている。と云うことは、戦争語り部の一員たり得るということだろう。
更に、今朝のテレビで、地方のある古家から、昭和20年6月「国民義勇隊」が組織され、各地方で、竹やり等で武装し訓練などしたことを報じていた。
それで、思い出したのは、小生の祖母が、日峯さんの前庭で、数十人のおばちゃん連中と隊伍を組み、竹やりで、藁人形を刺す訓練をしていたのを目撃したが、 それが、多分だが、その「国民義勇隊」の活動の一つだったに違いないと思い当たった。 嘗ての記憶に、タイミングの情報が加わった瞬間だ。
それで、日も段々過ぎていくが、暑さのなか昼寝しながら思ったことが、俺も語り部の一人だということで、憶えていることを箇条書きにしてみようと決心した。
以下、思い出した戦時記憶を箇条書きする。
  1. 昭和18年の初めころ、佐賀の東宝映画館で、「ハワイ・マレー沖海戦」を観た。当時、東宝には2階席に畳席があってそこで、寝転がって観た。何回も。 同じころ、黒澤明の処女作「姿三四郎」を観た。藤田進、轟夕起紀子、月形龍之介、志村喬などが出ていた。月形龍之介演じる檜垣源之助が怖かった記憶だ。
  2. 当時「世界館」(註:松竹系の映画館の名前)という映画館があって、そこに宮城千賀子主演の「歌う狸御殿」と言う映画を見に行った。すごく感動したことを憶えている。
  3. 家は直ぐ近くだったが迷子になりかけたことがある。映画館の前に飾られた写真に夢中で連れと離れてしまい途方に暮れたことがあった。 幸い、直ぐ見慣れた道に出たので戻れた。顔色青ざめていたかも。
  4. 横小路で祖母と住んでたころ、醤油が無くなり、代用醤油なるものを祖母が買ってきたが、醤油とはとても言えない代物で不味かった。 醤油らしいのは色だけだった。
  5. 幼稚園での帰りは園の指示で、同じ方向に帰る人が数人ニ列に並び、夫々が前の人の肩に両手を置いて隊伍を組んで帰った。
  6. 近所に仕立屋さんがあった。ご主人は中年の優男だったが、招集を受け出征していった。その壮行会が、その仕立屋の前で行われたが、 国民服にたすき掛けで一段高いところに立ち挨拶した。周りを二重三重に埋めた人々は、万歳を叫び、国旗を打ち振って見送った。優男が別人に見えたものだ。その後は知らない。
  7. 親戚の家で、のらくろ上等兵とかのらくろ伍長とかの漫画を読んだ。とても面白かった。
  8. 当時食糧難で、母のタンスの引き出しを開けたら米が一杯入っていたのには驚いた。
  9. 母は買いだしに行った。1〜2回行ったようだ。当時は農家全盛の時代だった。
  10. 海茸の干物がカマス一杯あって、よく焼いて食べた。美味だったことを憶えている。 外から帰ったら、俺の足が汚いのを見て、お袋は言った「海茸のごたっ!」と。立つ瀬がなくしょんぼりしたが、上手い喩えだと思ったものだ。
  11. 店で飼ってた二羽の鶏が死んだ。その亡骸を鳥かごの上に置いておいたところ、暫くして見たら無くなっていた。野良ちゃんが引いたか、誰かが持って行ったかは不明。
  12. 母の実家は料亭で大きな玄関があったが、ある日、空襲時避難路を通すため、玄関を打ち壊し更地にするよう命じられた。戦時狂気の沙汰だったと思う。
  13. 母の実家の裏道に、陸軍兵士が数十人、歩兵銃を三本立てにして休憩しているのを数回見た。多分、行軍の後、昼食に寄ったのだろう。やってるなって感じで日常的だった。
  14. 店に機関銃弾2発が撃ち込まれた。その弾のその後は知らない。今あれば、戦争遺産だろう。
  15. 目達原の陸軍飛行場に三式戦闘機「飛燕」*を見に行った。道から直ぐのところに2機、こっちを向いて並んでいた。圧倒される大きさでものも言えなかった。
  16. 空襲がひどくなり、横小路の家の多布施川沿いに生える竹藪の中で蚊帳を吊って寝た。真夏のことで寒くはなかった。爆撃があれば、川の水で布団びしょ濡れに知りと言っていた。 でも直ぐ寝た記憶だ。川の水で濡れた布団を被らないで済んだのは幸いだった。 翌朝だが、長崎で新型爆弾が落とされたようだと噂を聞いた。
  17. B29が南西方向に向かって低空で飛んで行った。ものすごい爆音と、その後を追う戦闘機2機を目撃した。B29は心なしか与太っていた感じで、 戦闘機2機は斜めに編隊を組み足早に同方向に消えていった。頼もしかった。あの頃はよく飛行機を見たので日常的なできごとだったが、 B29があんなに低空を飛ぶのを見たのは初めてだった。
  18. 空襲警報が毎日数回鳴り、煩かった。
  19. 大本営発表、敵戦艦何隻撃沈、敵駆逐艦何隻撃沈などの戦果の発表が日常化し、こんなに沈めてもまた来るのだから、敵って凄い!と思ったものだ。
  20. 玉音放送を横小路の家の前で大人数人と聴いた。聴き終わって誰かが「どうやら負けたようだ」と言った。・・・小生、明日からは空襲警報が鳴らないことが嬉しかった。
戦後の記憶(戦争が直接・間接の原因で生じた記憶)
  1. 教科書に墨を入れたこと。
  2. 戦後、馬肉のステーキが美味かった。小生は好物でよく食べた。そんな私を母は喜んで見ていた。
  3. 戦争が終わって軍用馬が食用化したものらしい。思えばその頃が一番幸せだったような気がする。
  4. バスは木炭車だった。エンジンが不調のときは、道脇に止め、手回しの送風機で、炭に空気を送っていた。馬車も日常的だった。道路の真ん中には馬糞が転がっていた。
  5. 戦争が終わって、洋画がどっと公開された。憶えているのは、「美女と野獣」「天井桟敷の人々」「望郷」「未完成交響曲」「駅馬車」「ガス燈」「ジェニーの肖像」 「船乗りシンドバットの冒険」「オーケストラの少女」「第三の男」「オルフェ」「駅馬車」「サムソンとデリラ」「略奪された7人の花嫁」などなど。
  6. 邦画では、知恵蔵の「七つの顔の男」「三本指の男」、三船敏郎の「羅生門」「野良犬」、三益愛子の「母」、 森繁久彌の「三等重役」など手あたり次第見ていた。
  7. 上原謙と田中絹代の映画「愛染かつら」が、戦後の昭和22年ころ「世界館」で再上映された。 すごい人気で入りを待つ観客の行列が、日峯さんの鳥居を通り越し貫通道路の方まで続いていたのを見た。 何処まで続いているのか最後尾は見えなかったが、調べていたらよかったと後悔している。恐らく前代未聞だったろう。 鳥居まで伸びたのは何回か見たが、それを通り越したのを見たのは初めてだった。
  8. 店の2階に兄弟4人、枕を並べて4本川の字で寝たが、朝になると、母がレコードを掛けてくれた。曲は決まってベートーベンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」だ。 この曲を聴きながら微睡む朝の時間は忘れられない。もう一組、バッハの「ブランデンブルグ協奏曲」もあったが、それは掛けてくれなかった。 どうやら母の好みは「皇帝」だったようだ。だからこの曲は体にしみ込んでいる。
  9. 戦後、飛行兵上がりの若者が店に飛行服を置いていった。小生にはブカブカだったが上等だったように思へた。
  10. 横小路の家の前を流れる多布施川で蜆を獲った。よく獲れた記憶だ。だが、上流に県病院があって、聊か不安だった。ばい菌が流れているかもと思ったからだ。
  11. 小学校3年の担任は、西岡という下士官上がりの教員で、よく平手打ちをされた。あんなかっとくる人を見たのは初めての経験だった。
  12. 小学校4年の担任は福島先生、5年6年の担任は中村先生というこれも海軍士官上がりの先生だったが、お二人とも温厚だった。
  13. 中学2年の担任は酷かった。社会科の先生で、経歴は知らない。黒板に白墨で奇麗な字を時間を掛けて書く先生で、字を書いてる内に時間が来た。 退屈な先生だった。だが、往復ビンタを喰ったことがある。退屈でたまらないという思いが顔に出てたかも知れない。そうでなければ合理的な説明が付かない。
  14. 佐賀測候所の門前に米兵が二人、剣付鉄砲姿で立っていた。
  15. 母の実家で、拳銃をみた。供出前の茶の間でのこと。南部式拳銃が2丁箱詰めされていた。
  16. 昭和24年5月22〜23日、天皇陛下の佐賀御巡行があり、22日は、母の実家(料亭)にお泊りになった。 小生小学校5年のことだ。あずき色のベンツの御用車でおこしになるのを家族を含め多人数でお迎えし、またお見送りもしたが、子供心に大層なことが起ってると感じた。 だがどれほどの大変さかは分からなかった。従弟の不破正典もいて神妙な顔をしていたな。ただあずき色のベンツの朱の色が目に残った。なんとも言えない朱色だったから。
  17. 壊された表玄関は、疎開されていた部材を使って再築されたそうだ。沖森知事より下命頂いたのがその年の4月4日で、本番が5月22日だから、建屋の再築を含め、準備が大変だったようである。 (祖母の残した冊子から抜粋)
  18. 朝日館という映画館の前に、米軍の司令部?がおかれていた。確か高校くらいまであったように思う。名前も聴きなれたものだったが今や忘れてしまった。
  19. 給食にて脱脂粉乳が配られた。不味いことと云ったらなかった。弁当箱の蓋で受け、半分くらい飲んで捨てた。大概そうだったと思う。 でも今から思うとけしからん!だな。それと知らずタンパク質を捨てていたからだ。
  20. 店に数人の米軍が来て、私にチョコバーをくれた。あとで、俺がもらったと主張したが、お袋に没収されて、兄弟で分けて食べた。
  21. 日峯さんの前には、傷病兵が物乞いをしていた。足の傷にウジが蠢いていて吃驚だった。
  22. 昭和32年、高校出て東京に住んだが、東京の渋谷駅前には戦後十数年後の頃も、傷病兵が物乞いをしていた。
そんなところが記憶されたもの。小生の戦争体験は、さほど酷くはなかったが、影響は受けた。負けないくらいに。
戦争はしたくない。だが、降りかかる火の粉は払わなければならない。慎重に冷静に振る舞うべきで、やけくその挑戦はいけない。 教訓は、長い目で見ること。特に技術系では長い目が要る。例えば戦闘機。レシプロエンジンからジェットエンジンへに乗り遅れたし、 すばる望遠鏡は在来型技術の延長上のもの。ハッブル望遠鏡は、在来型を脱した新しい技術だ。
日本人は一言で言って凝る。凝るとは目の前のことに拘るということだ。例えば零戦だが、レシプロエンジンに磨きを掛け、 開戦当時無敵を誇ったが、1年もしない内に追いつかれてしまった。 凝り性の限界だ。いい面もあるが、もっと広い視野が必要だろう。・・・そうしていれば二度と失敗はしないはず。
もう一つは、戦略的な考え方をしないといけない。戦略的とは意味不明な言葉だが、反対語を言えば刹那的だ。 例えば、特攻。これは人材と兵器の使い方を極端に刹那的に使った好例だ。 この戦術を見た米軍司令部は、これで勝ったと思ったはず。戦力消耗が見えたからだ。戦略的ならもっと反復使用を目指すべきだった。
纏めて言えば、長い目で技術と戦略的思考が大事だろう。要は人材の問題だ。教科書丸暗記ではいけない。書いてないことを見通す人材が要る。
以上が小生の語り部の内容だが、思うことは、慎重に冷静に振る舞い焼けくその挑戦は法度ということ。聴いた人は肝に銘じてほしい。
*陸軍三式戦闘機「飛燕」 昭和18年に旧陸軍に制式採用され、川崎航空機工業(当時)が終戦までに約3千機を製作。 主任設計者は零式艦上戦闘機(零戦)の設計者である堀越二郎氏と東京帝大(現東大)で同期だった土井武夫氏。陸海軍の他の戦闘機が搭載した空冷エンジンと異なり、ドイツ発の液冷エンジンを搭載した。最大時速610キロ、高度1万メートルで飛行できる性能を誇ったが、エンジントラブルも多かったとされる。
エンジンは、ドイツ空軍の戦闘機メッサーシュミット「Bf109」に搭載されていた液冷ピストン・エンジン「DB 601」の製造権を取得して、国産化したもの。
液冷エンジンの製造に遅れが生じてしまったのです。そのため工場には、エンジンを取り付けられずに機体のみ完成した、首無しの「飛燕」が並ぶ事態にまで陥ってしまったとか。
そこで陸軍からの指示で、「飛燕」に他の戦闘機で一般的な空冷エンジンを搭載した機体「キ100」を急遽開発することとなり、 これが旧日本陸軍の五式戦闘機につながります。
この空冷エンジンバージョンの「飛燕」は1945年2月にデビュー、整備性が上がり稼働率が向上しただけでなく、 馬力が大きく軽量化もされた新型エンジンだったことから、初期タイプの「飛燕」にも劣らないスペックがあったそうです。 このように「飛燕」は、複雑な性質をもつ液冷エンジンの性能を充分に発揮したとは言い難いまま、その役目を終えてしまいました。
一方で、欧州ではメッサーシュミット「Bf109」が第二次世界大戦下で3万機以上が作られたほか、 アメリカでは第二次世界大戦最優秀機ともいわれるP-38「ライトニング」、 レシプロ・エンジン搭載の最高傑作とよばれる戦闘機P-51「マスタング」など、液冷エンジン機が存在感を放っています。 (以上Yahooニュースより抜粋)
日本陸軍は、ドイツ空軍の戦闘機メッサーシュミット「Bf109」に搭載されていた液冷ピストン・エンジン「DB 601」の製造権を取得して、国産化したが、量産に失敗した。 技術的には、空冷エンジンに比べ液冷エンジンは技術的に難しかったのだ。
今から40年程前、日経の山本 卓眞氏の記事で氏が書いた飛行機に関する記述をみて驚いたことがある。 因みに氏は1943年陸軍航空士官学校出の陸軍少尉だったが、氏の経験では、陸軍の飛行機は、エンジンオイル漏れが酷く、一回乗ると油まみれになったと記されていた。 パッキン材の性能が低く、油漏れが防げなかったというわけだ。 小生、これ聴いて吃驚したものだ。飛行機の性能は高いと信じていたものが、裏切られた思いだったから。 そんなんでよく開戦に踏み切ったものだと思う。
それから特攻。凡そ2000機が使われたそうだが、優秀なパイロットを一回きりの攻撃で失う戦術をどうして採用したのか不思議。 繰り返し攻撃に使った方がよっぽど効果的だっただろうにと思う。 ここいら辺が、思いつき、刹那的で、冷静な思考判断放棄の短絡思考なのだろうと思う。
技術的欠陥だけではなく、インテリジェンスに於いても、劣っていたようだ。 特攻を見た米軍は、これで勝ったと思ったと思う。 マッカサーは、アングロサクソンを37歳だとすれば日本人は12歳と評したそうだが、むべなるかなである。
 
 
 

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