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(オハイオ州立大学の物理学サイトより抜粋。日経サイエンス(2012/9)号にも邦訳版が掲載されているので公開されているはずだが、CERNのサイトからは発見できなかった。
努力不足の所為だろう。)
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簡単に言えば、このグラフがヒッグス粒子発見の根拠だった。
このグラフは、1100兆回の陽子衝突実験結果をプロットしたもの。名づけて「ヒッグス粒子のシグナル」だ。
このなんでもないように見える紙切れ一枚が、5000億円の巨費を掛けて建設した巨大加速器(大型ハドロン衝突型加速器 、LHC:Large Hadron Collider)を用い、
30年以上に亘って続けられ、1万人近い研究者や技術者を投じて得ることができた成果である。
紙切れ一枚だが偉大な一枚だ。そのようなことを知った上で眺めると、また違ったように見えるのではないだろうか。
何故偉大かと言えば、実験を通してしかゲットできないからだ。
鉛筆舐めて書くどこかのマニュフェストとは違って、人類に新たに一つの知見が加わったことになる。
ATLASとCMS(どちらもLHCに組み込まれた高エネルギー陽子・陽子衝突の反応を観測する巨大な測定器)
は2011年から本格的に衝突エネルギー7TeVでの実験を開始、それぞれ同年内で約500兆回の陽子衝突を実現した。
2012年4月から衝突エネルギーを8TeVに上げて再開し、600兆回の陽子衝突を起こすことに成功した。
7月4日発表した実験結果は、両グループが昨年と今年に実施したそれぞれの累積約1100兆回の陽子衝突実験を解析したもの。
天文学的な回数の陽子衝突の中から、ヒッグス粒子が姿を現した。
それはこのグラフの中で示されている。このグラフを根拠に、ATLASは7月4日、ヒッグス粒子と思われる新粒子の発見を発表した。
グラフは陽子衝突で作られた粒子が2つの光子に崩壊した事例。
横軸は光子ペアに崩壊した親となる粒子の推定質量(エネルギーで表示)、縦軸は検出された個数。
赤い実線は、既知粒子による2光子への崩壊(バックグラウンド)に加え、
ヒッグス粒子が126.5GeVに存在すると想定した場合のヒッグス粒子からの崩壊の寄与を組み合わせたグラフ。
125GeVあたりの実験データの盛り上がりとよく合致する。
赤い点線は、ヒッグス粒子からの崩壊の寄与がない場合のグラフ。
この図の下段は、赤い点線がフラット(水平)になる処理をしたグラフ。
こちらでも125GeVあたりの盛り上がりが明確にわかる。
簡単に言えば、ATLASの実験データで光子2個への崩壊データの解析結果を表している。
横軸は質量(エネルギーで表示),縦軸はデータ数だ。
赤線で示す右肩下がりの曲線はバックグラウンドで,125GeVあたりのところだけ,バックグランドから盛り上がっている。
これがヒッグス粒子によるものと解釈できるのだ。
なお、バックグラウンドとは既知の反応で起きる崩壊パターンの発生頻度を言う。
従って、実験の結果の発生頻度がバックグラウンドの通りだと、既知のパターンの崩壊しか起こっていなかったことになる。
しかし、上記のグラフでは、バックグラウンドの通りではなく、そこからの膨らみの部分があることが分かるので、
未知の崩壊パターンが起こっていたことになるのだ。
それが何故ヒッグス粒子によるものかと言えば、現在の素粒子物理学の基本的な枠組みである標準モデル(標準理論)
では、物質を構成する素粒子(フェルミ粒子と総称される)12種類と、力を担うボーズ粒子がヒッグス粒子を含めて5種類、
計17種類の素粒子があると考えているが、その内、ヒッグス粒子を除く16種類の素粒子はすでに発見されており、
ヒッグス粒子だけが未発見だから、実験の結果の発生頻度がバックグラウンドの通りではない膨らみは、
ヒッグス粒子の所為ということになるわけなのだ。
探偵小説で言えば、独りだけアリバイの無い人を犯人と決めるのに似ている。
これで、標準モデルの全部の素粒子が揃う。仮説の段階にとどまっていたヒッグス粒子の存在が実証されることは、
標準モデルが示す万物に質量を与えるメカニズムが現実世界で機能していることを意味する。
標準モデルに組み込まれている電弱統一理論はヒッグス粒子の存在が前提になっているので、同理論の正しさも検証されたことになる。
これによって標準モデルは、それが適用できる範囲において磐石のものとなり、
物理学者はこの理論をベースに未解明の問題に正面から挑むことができるようになる。
ヒッグス粒子と直接関係するのは質量の問題だ。標準モデルではヒッグス粒子の質量の値に関する予想はなかった。
そのため幅広い質量の領域を、巨大加速器による実験で虱つぶしに探索する努力が数十年の間続けられてきた。
そして今回、ようやくLHCの実験で、ヒッグス粒子とみられる質量125〜126GeVの新粒子が見つかった。
ただし、その質量は量子力学の理論から考えられる値よりはるかに軽い。
何故軽いのか、そして何故125〜126GeVという値になっているのか、解明はこれからだ。
先に重要なものを書いてしまったので、この後はガラクタみたいなものだが、
この偉大な紙切れを手に入れた方法について少しだけ触れることにする。
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(この写真は、CERNの画像サイトよりダウンロードしたものである。)
先ず、大型ハドロン衝突型加速器LHCについて触れることにする。
LHCの実験では, 地下約100mに建設した一周約30kmの巨大なリング状の加速器を使って、
互いに逆方向に走る陽子をほぼ光速まで加速,正面衝突させ、
これによって宇宙誕生直後と同じ超高エネルギー状態を実現、ヒッグス粒子を生み出すわけである。
ヒッグス粒子はすぐに、複数個のより軽い素粒子へと崩壊するので、ATLASとCMSはこれらの崩壊してできた素粒子の種類とエネルギー、
飛散する方向などを精密に測定し、崩壊する前の粒子が既知の粒子か、それともヒッグス粒子なのかを調べた。
写真の中に描かれた丸い円がLHCの位置を示している。
そのLHCの概念図を次の写真で示そう。
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(この写真は、CERNの画像サイトよりダウンロードしたものである。)
陽子は、"Start the Protons out here"のところで発生し、矢印に従って加速されながら進んで行き、上の大きなリングの中に入る。
その大きリングの中で加速され、光速の0.999999倍の速度(約30万km/秒弱)で陽子同士衝突する。
衝突する場所は、リングの一番上のCMS(Compact Muon Solenoid)と、一番下のATLAS(A Toroidal LHC ApparatuS)などだ。
陽子衝突は毎秒5億回ほど起こるが、陽子同士の衝突は汚い。
カリフォルニア工科大学の理論物理学者ファインマンはかつてこの過程を「ゴミ箱をゴミ箱にぶつける」ことに譬えた。
大量のがらくたが飛び出してくるという意味だ。
精緻な検出器と特製の電子機器、最先端のコンピューターの力を借りて、物理学者たちは膨大な量の平凡な現象の中から
数少ない興味深い物理現象を選び出す。
その割合を最初のグラフから計算してみると、膨らんだ箇所に明らかに3点のプロットがある。
その横軸をみると凡そ1200個より少し少ないくらいのところだ。従って約3500回のヒッグス粒子が生成されたと考えられる。
陽子衝突の総数は1100兆回だから、その内から3500回の興味深い物理現象を拾ったことになるのだ。
となれば、3500億回のゴミ箱の衝突から1回だけお財を見つけ出したことになる。
割合に直すには、1を3500億で割り算すればいいが、する気にもなれない頻度だ。
若し、プロ野球選手の打率が3500億分の1だったら、戦力外通告間違い無しだ。勿論、紙くず拾い業も成り立たない。
ATLAS実験もCMS実験も、ヒッグス粒子を直接には観察できない。あまりにも早く別の粒子へと崩壊してしまうからだ。
だから、ヒッグス粒子が加速器の中で生成された証拠を探す。
ヒッグス粒子はその質量に応じて、より軽い粒子へと様々なパターンで崩壊すると考えられる。
そのパターンの中からヒッグス粒子が引き起こす5組の崩壊パターンの痕跡を選び出すのだ。
巨大な加速器、精緻な検出器と特製の電子機器、最先端のコンピューターなどの力なくしては実現し得ない実験であると言えるだろう。
更に、このような実験を実現する好奇心と科学する精神に感嘆する。
それにしても、このイラスト、美しいよね。
この極度まで簡素化された平面画像、これこそが西洋人の考え方の基本的な一面を映しているのではないかと思う。
「2050年の世界 英『エコノミスト誌は予測する』」という本に次のように書かれている。
アラブと中国も、同じくらい買いかぶられてきた。どちらも多くのデータとかなり実用的な技術を生みながら、
たいした理論を(ここでも数学は別として)生まなかった。更にどちらも、致命的な欠点として、実験による理論を検証し、
必要なら旧来の学識を排していくという姿勢を持たなかった。優れた科学は、それとは正反対に統制を嫌い、
権威ではなくデータのみを尊重する。
このようなことが事実とすれば、彼我の違いは、このイラストに映し出された「簡素化」の感覚の違いではないだろうか。
別の言葉で言えば、「記号化」の感覚の違いだろう。
考えてみれば、理論化という操作は究極の簡素化・記号化とも言えるのではないかと思うのだ。
我々は、ますます複雑化する世の中にあって、思考や物事の簡素化を指向しなければならないと思う。
複雑さに押しつぶされないために。・・・そんな気がする。
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