日本学術会議の「軍事研究」に思う

石井俊雄
私は、日本学術会議の「軍事研究」に関する報道を、昨日のNHKニュースで聴いた。
反対派の主張を聴いて第一勘、「いい気なものだ!」と思った。 過去の過ちを反省する余り、思考停止レベルの議論に終始しているように思えたからである。
本欄で、現実を直視することの重要性を記してみたい。
  1. 現状
    日本学術会議の「軍事研究」に関する現状は次の二つの報道から知ることが出来る。
    1. 『「軍事研究」の戦後史』への書評から抜粋
      今日の毎日新聞の「今週の本棚」の紙面に『「軍事研究」の戦後史』(杉山滋郎著)への書評が掲載されている。
      主要点を抜粋すると次のとおりである。
      科学者の代表機関・日本学術会議は昨年、軍事研究を否定した声明を半世紀ぶりに見直す検討を始めたが、軍事研究の定義などを巡り、 推進派と反対派の議論はかみ合っていない。
      軍事研究の定義とは、例えば、「自衛のためなら軍事研究ではない。」 「いや、軍事組織から資金を得れば軍事研究だ」などである。
      著者は、民生用と軍事の技術が『相乗り』する新たな傾向を指摘し、入り口だけで線を引く発想に一石を投じている。
      著者は、科学者が、『軍事研究に手を染めない』ために本当に必要なのは観念論ではなく、歴史の教訓と時代変化を踏まえた主体的取り組みであるとの 解決につながる問題提起も試みている。
    2. NHKニュースから抜粋
      日本学術会議の行っている軍事研究を否定した声明を半世紀ぶりに見直す検討については、昨日のNHKニュースでも報じていた。
      主要点を抜粋すると次のとおりである。
      反対派の一人は、「戦争の教訓を忘れてしまったのか!」と絶叫し、 推進派の一人は、「日本学術会議がやらない(軍事研究を)なら、誰がやるのだ?」と反論した。
  2. 問題点
    私は、昨日のNHKニュースで反対派の主張を聴いて第一勘、「いい気なものだ!」と思った。 世の中の全てのことに二面性が存在するのに、その一面しか見ないという主張だからだ。
    言わばいいとこ取りで、悪いところは私は知らないと切り捨てている。 従って、推進派の呈する疑問、「日本学術会議がやらないなら、誰がやるのだ?」との疑問は、尤もなことであると思う。
    斯かる現状から問題点が浮かび上がる。 それは、現実を直視していないことである。
    では、現実とは何か?それは次の三つである。
    1. 二面性の認識
      1. 科学技術の二面性
        科学技術にだって二面性はある。 利便性や効率が上がるという反面にはリスクが生じている。 例えば刃物。これは家や家具を作るのに役に立つ反面、刀や槍などの武器というリスクを生む。 鉄砲だって狩りの効率を飛躍的に上昇させた反面、戦争に使われて、多くの人を殺してきた。
        このような二面性のある技術を、危険という面からしか見ないのはおかしい。 このような見方に普遍的価値があるというなら、石器時代は歴史上存在しなかったはず。これでは、石器の開発さへ研究停止になるからだ。 その結果、我々は今でも旧石器時代以前の世界に生きているだろう。
      2. 思考の二面性
        人間の思考にも二面性がある。善悪の二面性だ。
        世の中には、いい人ばかりではないということである。 言い換えれば、悪人が権力を持ったり、狂人が刃物を持つこともないとは言えない。 それが現実の脅威、即ち、問題点である。
      3. 能力の二面性
        個人としての能力にも二面性がある。 秀才と鈍才という二面性だ。
        天才の発想を鈍才の才能が潰すのは問題だ。並みの人間だけが幅を利かす社会は停滞する。
       
    2. 技術の『相乗り』傾向
      それから、毎日新聞の「今週の本棚」の紙面に「軍事研究」の戦後史(杉山滋郎著)、にあるように、 「民生用と軍事の技術が『相乗り』する新たな傾向が生じている。」というのも事実である。
      例えば、サイバー攻撃で使用する技術であるが、これは、暗号技術という点で重なりが大きい。 今、その技術の主なものは、素数を用いたものが主流であるが、これが量子コンピューターなどの技術で破られた場合、 金融業、ネット通販業、IOT関連企業、などが危機に瀕してしまう。勿論軍事通信も例外ではない。
     
  3. 解決策
    現代の指導レベルの人材は、この二つの事実を直視すべきだと思う。 即ち、現実を直視するべきである。 現実と観念と比べたら、現実をとるべきだ。
    現実を無視して観念に走ると、破綻が待っている。かつてソビエト社会主義が破綻したように。 替わりに、現実直視して成功した国は、歴史上イギリスやスペイン、中国だろう。 アメリカは、まだ途上にある国、ロシアも成長中である。 中国はすでに5000年間、それでやってきた国で驚異的な実績の国と言えるだろう。
    日本は少し停まりかけているのかも知れない。それが心配だ。 学術会議のメンバーなら、目先ではなく現実を直視すべきである。
    でも、楽観的現実主義がいい。それは、危険と効率のバランスを計ってくれるくれるから。
     
  4. おまけ
    私たちは、現実に身をゆだねるべきである。 ビートルズ曲の"Let it be"は、困ったときはマリア様に身をゆだねよ!と歌うが、我々は現実を見極め、それに身をゆだねよう。 現実直視こそ指導者の行く道である。
    この曲を聴いて思うことは、神様が出てくること。 我が国の歌、例えば演歌などに神が出てくることがあるのだろうか。 私が知る限り無い。仏様も然りである。・・・ここの辺り、社会心理学か民俗学か比較言語学か宗教学か知らないが、 研究テーマにしたら面白そう。宗教の役割が明らかになるかも知れないからだ。
    宗教の役割が「救い」ということなら、日本人の歌に何故神様がいないのか理解できない。 何故なら、「救い」なら救い手が必要だから、神が語られているはず。 それなのに語られてないのだから、「救い」以外の役割があるはず。・・・それは「悟り」だろうか?
    「悟り」は、自分の努力に期待する脱出法だから、神が出てこないのも頷ける。神は手段ではないのだ。 神に頼らず、自らの努力に頼ろうとするところが健気でもあるし、救いがない分、悲惨でもある。 だから演歌は自虐的かつ惨めっぽくならざるを得ないのだろう。 ・・・これが答えだろうか? これ以上の推論は出来ない。私の知見の見る地平線はここまでだ。
    先ほど、「私たちは現実に身をゆだねるべきである。」と書いたが、この言葉、面白いよね。 何故なら、私たちは現実に身をゆだねる以外の選択肢があるのか?と疑うからだ。 私は、実際は、「ない」と思う。「ある」というのは幻想に過ぎないのだ。
    だが、幻想でない答えがあるとしたらそれは戦いという立場だろう。戦いとは死ということでもある。 だから、現実に身をゆだねない立場とは、幻想に生きるか、現実と戦うか、の二つの立場だということになる。
    例えば、金色夜叉のお宮の現実はお金、寛一のは愛だった。結果は二人とも生き続ける途を選んだ。現実に身をゆだねたのである。
    また、学術会議の場合の反対派のは幻想である。幻想とは「思い込み」の別称だ。独り相撲ということになる。
     
 
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