- 科学技術の二面性
科学技術にだって二面性はある。
利便性や効率が上がるという反面にはリスクが生じている。
例えば刃物。これは家や家具を作るのに役に立つ反面、刀や槍などの武器というリスクを生む。
鉄砲だって狩りの効率を飛躍的に上昇させた反面、戦争に使われて、多くの人を殺してきた。
このような二面性のある技術を、危険という面からしか見ないのはおかしい。
このような見方に普遍的価値があるというなら、石器時代は歴史上存在しなかったはず。これでは、石器の開発さへ研究停止になるからだ。
その結果、我々は今でも旧石器時代以前の世界に生きているだろう。
- 思考の二面性
人間の思考にも二面性がある。善悪の二面性だ。
世の中には、いい人ばかりではないということである。
言い換えれば、悪人が権力を持ったり、狂人が刃物を持つこともないとは言えない。
それが現実の脅威、即ち、問題点である。
- 能力の二面性
個人としての能力にも二面性がある。
秀才と鈍才という二面性だ。
天才の発想を鈍才の才能が潰すのは問題だ。並みの人間だけが幅を利かす社会は停滞する。
技術の『相乗り』傾向
それから、毎日新聞の「今週の本棚」の紙面に「軍事研究」の戦後史(杉山滋郎著)、にあるように、
「民生用と軍事の技術が『相乗り』する新たな傾向が生じている。」というのも事実である。
例えば、サイバー攻撃で使用する技術であるが、これは、暗号技術という点で重なりが大きい。
今、その技術の主なものは、素数を用いたものが主流であるが、これが量子コンピューターなどの技術で破られた場合、
金融業、ネット通販業、IOT関連企業、などが危機に瀕してしまう。勿論軍事通信も例外ではない。
解決策
現代の指導レベルの人材は、この二つの事実を直視すべきだと思う。
即ち、現実を直視するべきである。
現実と観念と比べたら、現実をとるべきだ。
現実を無視して観念に走ると、破綻が待っている。かつてソビエト社会主義が破綻したように。
替わりに、現実直視して成功した国は、歴史上イギリスやスペイン、中国だろう。
アメリカは、まだ途上にある国、ロシアも成長中である。
中国はすでに5000年間、それでやってきた国で驚異的な実績の国と言えるだろう。
日本は少し停まりかけているのかも知れない。それが心配だ。
学術会議のメンバーなら、目先ではなく現実を直視すべきである。
でも、楽観的現実主義がいい。それは、危険と効率のバランスを計ってくれるくれるから。
おまけ
私たちは、現実に身をゆだねるべきである。
ビートルズ曲の"Let it be"は、困ったときはマリア様に身をゆだねよ!と歌うが、我々は現実を見極め、それに身をゆだねよう。
現実直視こそ指導者の行く道である。
この曲を聴いて思うことは、神様が出てくること。
我が国の歌、例えば演歌などに神が出てくることがあるのだろうか。
私が知る限り無い。仏様も然りである。・・・ここの辺り、社会心理学か民俗学か比較言語学か宗教学か知らないが、
研究テーマにしたら面白そう。宗教の役割が明らかになるかも知れないからだ。
宗教の役割が「救い」ということなら、日本人の歌に何故神様がいないのか理解できない。
何故なら、「救い」なら救い手が必要だから、神が語られているはず。
それなのに語られてないのだから、「救い」以外の役割があるはず。・・・それは「悟り」だろうか?
「悟り」は、自分の努力に期待する脱出法だから、神が出てこないのも頷ける。神は手段ではないのだ。
神に頼らず、自らの努力に頼ろうとするところが健気でもあるし、救いがない分、悲惨でもある。
だから演歌は自虐的かつ惨めっぽくならざるを得ないのだろう。
・・・これが答えだろうか? これ以上の推論は出来ない。私の知見の見る地平線はここまでだ。
先ほど、「私たちは現実に身をゆだねるべきである。」と書いたが、この言葉、面白いよね。
何故なら、私たちは現実に身をゆだねる以外の選択肢があるのか?と疑うからだ。
私は、実際は、「ない」と思う。「ある」というのは幻想に過ぎないのだ。
だが、幻想でない答えがあるとしたらそれは戦いという立場だろう。戦いとは死ということでもある。
だから、現実に身をゆだねない立場とは、幻想に生きるか、現実と戦うか、の二つの立場だということになる。
例えば、金色夜叉のお宮の現実はお金、寛一のは愛だった。結果は二人とも生き続ける途を選んだ。現実に身をゆだねたのである。
また、学術会議の場合の反対派のは幻想である。幻想とは「思い込み」の別称だ。独り相撲ということになる。