後期高齢者の風景

 
石井俊雄
今日は私の誕生日。75歳のだ。今や立派な後期高齢者。
小生の誕生日は4月10日だから、同期の仲間の中でもその早きことトップクラスではないだろうか。 そこで、75歳の誕生日を境にどのように風景が変わるか述べてみたい。
  1. 医療保険制度
    健康保険の制度が替わる。従前は、「国民健康保険」の被保険者だったものが、「後期高齢者医療制度」の被保険者になる。本人の意思とは関係なしに自動的にだ。 だから、「被保険者証」も替わる。
     
  2. 「後期高齢者医療制度」の保険料
    厄介なのは保険料。小生の場合、年額で27,000円ほど増える計算だ。 内訳は、均等割りは減る計算だが、所得割がその倍以上増えるのだ。
    所得割が何故増えるかは、所得割率が従前の5.9%から8.19%に変わるからだ。本当に、石川啄木の心境だよ。
     
  3. 距離の地平線
    後期高齢者になったからと言って、見える地平線に格段の違いはない。 遠いようでもあり、近いようでもある。 でも、遠くても国内、近くは、都内だ。 先々、病院の一室とか養老院の敷地内ということにはならないようにしたい。
     
  4. 生きがい:一般論
    昨日の朝日新聞の天声人語に、
    「生きるためには食べねばならない。が、ときには食べるために生きるのだと嘯いてみたい。」
    と書かれていた。
    この論旨、第一勘は、「とんでもない豚野郎だ!」と思うと同時に、改めて何のために生きてるのかを自問した。
    先ず、巷間の解釈を知る必要がある。何故なら、自前の答えは言葉になってないからだ。 そこで、例によって「生きる意味」というキーワードでネット検索してみた。
    その結果、「人生の意義」という表題でのウイキペディアがあった。冒頭の解説は次の通りだ。
    人生の意義(英:Meaning of life)とは、人生において目的や意味はあるのか、あるとすればそれはいかなるものなのかという問いである。 自然な日本語では「人生の意義」などとは表現せず、むしろ「生きがい」という表現のほうが定着している。 この問いは、経済的に豊かな国でほど切実な問題となってくる傾向がある。経済的・物質的に豊かな国の人々ほど、 ひどい「空虚感」や「心のむなしさ」にさいなまれている人の数が増える傾向がある。アブラハム・マズローは人間は基本的欲求のすべてを満たして、 ようやく「自己実現の欲求」といった高次欲求に駆られ始める、と言っているが、「豊かな社会」は基本的欲求を満たしやすい社会なので、 高次の欲求が発現しやすく、それが満たされない苦しみにさいなまれやすいという面がある、と諸富は言う。
    とあった。成る程と頷ける論旨だと思う。
    確かに、戦後の食料不足の時代は、何とか食いつないで生き残るのが生きる目的と言えなくもなかった。 基本的欲求が満たされていなかったからだ。
    では、戦後の食料不足も解消し基本的欲求が満たされた現在において我々は、高次の欲求が発現しやすく、 それが満たされない苦しみにさいなまれている段階に居ることになるが、 天声人語の「食べるために生きる」ということが、高次の欲求に値するかどうかだが、どう思います?
    私は、「この人生の意義という問いは、そもそも自身の価値観の決定あるいは態度決定に関する問いであるので、 学問や科学は、この問いに対する解答を与えてくれはしない。」としたマックス・ウェーバーの言を採りたい。
    要は、クオリア(クオリアとは、あなたの心の中に生じる、一回かぎりの「感じ」のこと)の問題だ。 例えば、宗教の教えを信じることで、自分のクオリアが納得すればそれでよいと言うわけだ。 だから、冒頭の「食べるために生きる」という命題も本人がよければよしとしようとなる。
     
  5. 生きがい:私の
    朝日新聞の言い分は以上で済んだとして、いよいよ小生の生きがいだが、それは「自然の摂理に従って生きる」だ。
    このフレーズの主文は「生きる」だから、条件付きながら「生きる目的は生きる」となる。
    条件は、たとえ話をするとしたら、北宋の詩人、蘇東坡が詠んだ「柳は緑、花は紅、真面目」のように自然の摂理に従って生きること。
    そのためにしていることは、日々の体操、日々の乾布摩擦、日々寝る前の歯噛み、変なものを食べない、サイクリング、歩き、シルバー活動、 DIY、隠居仕事、などなど質素に生きること。 それからうっかりしたけど家内を大事にしていることも付け加えよう。
    なお、老子の「無為自然(あるがままに暮らす)」とは無縁であることを付記しておく。合理性の延長上にある心算だから。
     
  6. 時間の地平線
    後期高齢者になったからと言って、感じる時間の地平線に格段の違いはない。
    これも天声人語からの転用だが、土曜日だったが小沢昭一氏の俳句が紹介されていた。
    寒月や さて行く末の 丁と半
    小生、小沢昭一という人については、最近亡くなられたこと以外は殆ど知らないがこの俳句がいい。流石だ。 要するに、「先のことは分らない」と言いたいのだろう。
    私も同感だ。
    不可能は さてお迎えの 予約かな
    だ。
    下の句は、
    場所は言えても 時間は言えぬ
    だな。 自済すれば話は別だが、自済は自然の摂理に反するから有り得ない。
    (追記)
    「自然の摂理に従って生きる」というテーゼについて少し考えると、次の疑問が生じてくる。 「自己判断が出来なくなった痴呆状態はその摂理に合致するか?」という疑問だ。 また、もう一つ、「いろうや人工心肺などの機械仕掛けで生きる状態はその摂理に合致するか?」という疑問だ。 簡単に答えの出る問題では無いが、それを決める判断の基本は本人の意志だ。 となると、痴呆の場合は合致していないと考えるべきで、機械仕掛けの場合は本人の意志に従うなら合致していると考えるべきだろう。 小生はこの解釈で行くつもりだ。 この解釈での問題は痴呆の場合だ。自己判断の崖を察知できればいいが、失敗すれば崖から落ちてしまう。
     
 
 
 
 
 
 
 
 
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