頑張りと後悔

石井俊雄
今日、朝日新聞の朝刊の金融情報面の「経済気象台」というコラムに 「後悔しないために」というエッセイ風の短文が載っていた。
内容の主要点は次のとおり。
もっと早く、あの異常な円高が是正されていれば、あれほど多くの製造拠点が閉鎖縮小されることはなかった。 そうすれば現場で働く多くの人たちが退職や不本意な転職を余儀なくされることもなかったろうし、 貿易収支の赤字もこれほど大きくならずに済んでいただろう。手を打つのが遅すぎた。
減反などというつじつま合わせの政策を、もっと早くやめていれば、 田舎で働く人たちはこれほど減少することもなかったろうし、貴重な田畑が今のように放置されることもなかっただろう。 企業の農業への全面参入を認めていれば、農産品の競争力は今よりもはるかに改善されていただろう。
政治行政の怠慢や的を射ない政策で、わが国は多くの可能性を失ってきた。今、そのツケを払わされている。・・・
こんな記事が目に入った。
思えば、我々は多くの後悔に日々接している。 今度の大震災でも、何かと言えば、突き詰めたところ後悔である。 小生に言わせれば、後悔するくらいなら事前に備えるべきだった! やられてから、涙を流すよりよっぽど男らしい、となる。 そんなこと言うと非難されるかも知れないが、後出しで悔やむより、先に手を打つ、それが本当だろう。 碁で言えば本手だ。 本手を打ったほうがダメージが少ない。後悔先に立たずだから。
本手を打つためには計画が要る。しっかりした計画を立て、その実現に向けて進む、というやり方が必要だと思う。 そのような計画を戦略と云うのだ。 どうも、わが国はマスコミも学識専門家も後出しじゃんけんのようなところがある。 空気を読んでいるのだろう。 情けない話である。志操がないと言わざるを得ない。斯くいう私もだけど。
でも、世の中で影響力のある地位にある方には志操を持って欲しい。後悔の量を減らすために。 「国民総生産」などの指標があるが、「国民総後悔量」という指標を作ったらいいのかも知れない。 自分たちの至らなさが分かって。
兎に角、わが国を見ると、後悔の連続だ。 今までは国民の勤勉さが幸いして、なんとかそれこそ頑張ってきたが、頑張りは何時かさちってしまい、 下降線を描き、後悔の出番となるが、本手を打とうという考えもないままに、また、闇雲に頑張る、 というストーリーの連続だった。こののこぎり型の国の渡世、いつまでももつとは限るまい。
結論を言えば、「後悔しないために」というテーマの答えは、「戦略を立て本手を打つ」だ。
少し追記しよう。
それは、志操とは、本手とは、ということの例が見つかったことを記すものだ。 今朝土曜日の朝日新聞のbe紙面にある「磯田道史の備える歴史学」から、抜粋となる。 その中で、
歴史上には、その人がいたことで大勢の人命が助かったことがある。先の東日本大震災でも、それが起きた。 他の自治体に比べて、格段に死者・行方不明者の少ない村がある。 普代村(岩手県)である。3年前の震災でも20mを超える巨大津波が向かってきた。ところが、この村では、 奇跡的に死者はゼロであった。
として、この原因は、この村にはかって和村幸得という村長さんがいて、巨大防潮堤を築いたことである、としている。 詳しくは、新聞を見て欲しいが、この人の事跡から、上記の「志操」と「本手」の好例を見出して頂けると思う。 小生の理解するところでは、「志操」は「二度と泣かない」だし、「本手」は「巨大防潮堤」だと思う。
なお、「神に祈る」は「志操」の一部ではありえても「本手」ではない。 要するに、神頼みでは意味がない、となるのだ。 でも、神に誓うことで、「志操」を曲げないことには繋がる、と言えるだろう。 そうなると、一種の狂信者と言えるかもだけど、奇矯にならないためには、 神を内なる神、即ち理性に求めることが求められる。だから最終的には、頼りは自らの「理性」ということになる。 (1014/3/22 追記)
 
 
 
 
 
 
 
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