日本語の論理・都々逸と端唄

 
石井俊雄
図書館で大活字本という書棚で見つけた外山滋比古著の「日本語の論理」という本を読んでいる。 この中から、「思考の組み立て」という章について、小生が面白いと感じたことを抜粋してみる。 抜粋だから、その中に小生の所感は入らない。文字通り受売りをするわけだ。
但し、この本は惜しむらくは例示が少ない。というかほとんど皆無に近い。 だから、小生が少しだけ例を挿れた。江戸都々逸と端唄からとったものだ。 よろこんで貰えればうれしい。
 
「思考の組み立て」から抜粋
  1. 感情移入的
     
    • 日本語の動詞のほとんどすべてが人間を主語にとるようになっている。話し手が主語ならわざわざ示さなくてもよい。
    • これとほぼ同じことが思考についても言えるのである。たいていの思考が人間中心に人間に即してすすめられる。 主体ははっきりしないが、はっきり示してなければだいたいは話し手、書き手のことである。 ものと人間、ものごとと自分の關係には関心があるが、 ものごととものごとの関係にはさほど関心がないから論理学は日本では生まれなかったのだということになる。 日本人の発想は一種のヒューマニズムで、人間中心の日本語と結びついているというわけである。
      そういう思考の展開は人生論的であり、情緒的になるのは自然で、考える主体の感情が思考形式、内容にも乗り移る。 こういうのを感情移入的思考と呼ぶことができよう。
    • 思考には2種類あるように思われる。ひとつはこの感情移入による思考で、もうひとつは抽象的思考である。 後者は人間的パターンからなるべきはなれた幾何学的な考え方をするものである。 日本では感情移入的思考が中心であったから、抽象思考は面白くない、難しいものときめてかかる偏見が強い。 抽象的、観念的というのは、そのまま非難の言葉になるのが何よりの証拠である。
      日本的思考は二種類ある思考のうち一方が欠けていた。
     
    (以降、例示を挿入する。)
    以上から、この節の主張することを一言で言うと、
    「日本人の思考の展開は人生論的であり、情緒的になるのは自然で、考える主体の感情が思考形式、内容にも乗り移る。 こういうのを感情移入的思考と呼ぶことができよう。」
    ということになる。
    この事の例を都々逸の歌詞からとったものだ。
    「上を思えば限りがないと 下を見て咲く百合の花」
    なるほど!人生論的だ。
     
     
  2. おもしろさの発見
     
    • 感情移入的思考の強い社会では、ニュース、事件、楽屋話などのように人事にかんするものでないとおもしろくない、堅苦しいものであると感じられる。
    • 純粋思考の面白さ、理想の快感などが一般社会において常識になれば、われわれの精神生活はどれだけ豊かになるかしれない。 興味の拡大は形式的ないまの教育が量的な膨張にかまけて忘れている大きな問題である。
    • 知的興味の拡大を行うのには、ヒューマー(諧謔)の面白さに注意することから始めるのが最も現実的な方法であろう。 言葉遊びによる面白さが知られていなかったわけではないが、我が国には上品な笑いの伝統が弱い。 考え方を切り換え、そこに知的な笑いの世界を発見するというヒューマーの感覚に欠けている。 感情移入的思考がウェットな面白さをつくり出すとすれば、ヒューマーの面白さはドライなものである。
    • 純粋思考が本当に面白くならなければ、学門とか文化とか言ってみたところで、空しいものである。 どれほど教育が普及してみても、真の知的興味が根をおろさなけえば、教育の名に値しないものである。職業教育であり、技術訓練にすぎない。
     
    (以降、例示を挿入する。)
    この節では、純粋思考が本当に面白くならなければ、学門とか文化とか言ってみたところで、空しいものである。 どれほど教育が普及してみても、真の知的興味が根をおろさなけえば、教育の名に値しないものである。職業教育であり、技術訓練にすぎないことを指摘し、 知的興味の拡大を行うのには、ヒューマー(諧謔)の面白さに注意すべきだと述べておられる。
    そこのところの例を、都々逸で示そう。
    「惚れた数から振られた数を 引けば女房が残るだけ」
    論理的かつドライなユーモアに溢れている。
    もう一つ例示しよう。
    「わが物と思へば軽き傘の雪・・・」
    端唄「傘の雪」からとったものだ。とてもユーモラスだよね。
    ちなみに、端唄とは?の問に答えておこう。
    「端唄とは、江戸初期にあっては長唄との対語であり、元禄年間に刊行された「松の葉」あたりからこの名を確認できる。端唄には二つの意味合いがあり、江戸端唄の前身をさす場合と、短い上方唄(地唄)をさす場合とがある。 江戸端唄は、江戸時代中期以降における短い歌謡の総称である。1920年代までは小唄も端唄の名で呼ばれていたが、その後端唄うた沢・小唄俗曲とはっきりと区別されるようになった。」 (ウイキペディアより抜粋)
     
     
     
     
    今回は、ここまでにしておく。この後、「思考の原型」と続くのだが、ここらで止めにする。 図書館から借りた本の期限も後少しだから。
    最後に、端唄「傘の雪」でも聴いてくれ給え。頭に東雲節がくっついてるが。
 
 
 
 
 
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