おもしろさの発見
- 感情移入的思考の強い社会では、ニュース、事件、楽屋話などのように人事にかんするものでないとおもしろくない、堅苦しいものであると感じられる。
- 純粋思考の面白さ、理想の快感などが一般社会において常識になれば、われわれの精神生活はどれだけ豊かになるかしれない。
興味の拡大は形式的ないまの教育が量的な膨張にかまけて忘れている大きな問題である。
- 知的興味の拡大を行うのには、ヒューマー(諧謔)の面白さに注意することから始めるのが最も現実的な方法であろう。
言葉遊びによる面白さが知られていなかったわけではないが、我が国には上品な笑いの伝統が弱い。
考え方を切り換え、そこに知的な笑いの世界を発見するというヒューマーの感覚に欠けている。
感情移入的思考がウェットな面白さをつくり出すとすれば、ヒューマーの面白さはドライなものである。
- 純粋思考が本当に面白くならなければ、学門とか文化とか言ってみたところで、空しいものである。
どれほど教育が普及してみても、真の知的興味が根をおろさなけえば、教育の名に値しないものである。職業教育であり、技術訓練にすぎない。
(以降、例示を挿入する。)
この節では、純粋思考が本当に面白くならなければ、学門とか文化とか言ってみたところで、空しいものである。
どれほど教育が普及してみても、真の知的興味が根をおろさなけえば、教育の名に値しないものである。職業教育であり、技術訓練にすぎないことを指摘し、
知的興味の拡大を行うのには、ヒューマー(諧謔)の面白さに注意すべきだと述べておられる。
そこのところの例を、都々逸で示そう。
「惚れた数から振られた数を 引けば女房が残るだけ」
論理的かつドライなユーモアに溢れている。
もう一つ例示しよう。
「わが物と思へば軽き傘の雪・・・」
端唄「傘の雪」からとったものだ。とてもユーモラスだよね。
ちなみに、端唄とは?の問に答えておこう。
「端唄とは、江戸初期にあっては長唄との対語であり、元禄年間に刊行された「松の葉」あたりからこの名を確認できる。端唄には二つの意味合いがあり、江戸端唄の前身をさす場合と、短い上方唄(地唄)をさす場合とがある。
江戸端唄は、江戸時代中期以降における短い歌謡の総称である。1920年代までは小唄も端唄の名で呼ばれていたが、その後端唄うた沢・小唄俗曲とはっきりと区別されるようになった。」
(ウイキペディアより抜粋)
今回は、ここまでにしておく。この後、「思考の原型」と続くのだが、ここらで止めにする。
図書館から借りた本の期限も後少しだから。
最後に、端唄「傘の雪」でも聴いてくれ給え。頭に東雲節がくっついてるが。