造花のような音楽
石井俊雄
文芸春秋五月号をめくっていると面白い記事が目にはいった。
服部克久氏(作曲・編曲家)の書かれた記事だ。
題名は、「ヒット曲からメロディーが消えた」。
副題として、「なぜ世代を越えて愛される歌が生まれないのか」とあった。
小生も予てから変だな!と思っていたテーマだ。
息子が生まれて四十年余の時間が過ぎたが、息子がポピュラー音楽にはまる年頃のころ、息子の聴いてる曲を車の中のCDで聴いてみた。
だが、どの曲もリズムだけは強烈だが同じようなメロディーの繰り返しで、音楽としては感銘を受けた曲は無かった。
唯一、息子のシングル盤のCDで感心したのは、もう歌い手の名前もすぐには思い出さないが、黒人女性のボーカリストで・・・?
暫く時間をおいて考えて・・・マイケル・ジャックソンの友達で・・・、題名が確か、"If we hold on together"とか言った曲・・・?
それでも歌手の名前を思い出さない。仕方ないので、例によってネットで検索してみたら、・・・あった。
ダイアナ・ロスだ。
息子の好みと私の好みが一致した唯一の曲がこの曲だ。
それ以外は皆アウト。
息子に言ったものだ。
「単調なメロディーの繰り返しとビートだけが強烈なだけの曲、こんなのの何処がいいのだ!」と。
息子は、答えられなかった。
むしろ、質問の意味がよく分らないという風情だったように記憶している。
その答えがこの服部克久氏の記事で明らかになったように思う。
以下、氏の論文からの主要点を抜粋してみる。
- 価値観の変化
氏によると、今のレコード大賞に求められるものは、
- 社会的影響の大きさ」、別な言葉で言えば、「商業的価値」だ。
- もう一つの要素が「芸術的価値」。
この2つを較べると「商業的価値」が勝つそうだ。
結果として、芸術的価値がありみんなが知っていて口ずさめる曲が豊かにある時代は「今は昔」になってしまったそうだ。
- メロディーの枯渇
メロディーは十二の音の組み合わせだが、人間の脳が好ましいと感じる音の組み合わせは有限。
戦後70年近く、毎年莫大な数の新曲がリリースされてきたことからみると、
新しいメロディーが生まれるチャンスは年々少なくなってくると言わざるをえない。
更に、カラオケで一般の人に歌われることが売り上げの上で重要になっているので、
プロ歌手にしか歌えないような広い音域を曲を書いたりすると、制作者サイドから高い音を抑えるよう注文がつくので、
それもメロディーの枯渇につながる。
- 曲つくりの方法の変化
父(服部良一)の時代の音楽は、作詞→作曲→編曲という順序で作られたものが、今は、編曲→作曲→作詞という様に、
昔とは逆の順序で作業を行う。
実際にの作業では、スタジオにミュージシャンを集めて、実際にドラムを叩かせる。良いものが出てくると、「それ、良いね」。
ベースを弾かせて良いと「そのパターンにしよう」。
そうやって全部組み立てて音をつけていく。
もっと進化して曲つくりに「オーディションシステム」が導入される。
このシステムは、「公募」みたいなもので、今度誰々というアーティストがこういうコンセプウトでアルバムを作りますと「募集」すると、
プロデューサーのもとに何百曲と応募曲が届く。
時には二曲選び、それぞれの良いところを繋ぎ合わせてひとつの曲にする、ということもあった。
今の人にとっては、作曲性を重視して断るよりも、印税を半分もらえた方が実益にかなうということなのだろう。
昔は、レコード会社が作曲家や作詞家を巻き込んで、議論しながら「これで行こう!」とトップダウンで仕事を進めていった。
今は何事も合議制で、みんなで話し合いながら決めていく。
でも、いい音楽というものは、時には「自分はこっちの曲が好きだ」というような熱い議論をしないと生まれない。
「これもいいけど、あれもいいね」では、万人受けしても何かが足りない最大公約数的なものになってしまう。
- 投資資金の早期回収
レコード会社自体が、外国資本が入ったことによって、シビアになっている。
音楽に関心のない会社が、レコード会社に投資した場合、資金を回収できる見込みのある売れる曲作りが余計に求められる。
かくして、作曲家、作詞家、名物プロデューサーというプロの不在の今、音楽に残ったのは、
歌っているその人たちと、メロディー性に乏しい「サウンド」だ。
その結果、何となく聴いたことのあるような曲やパット見も良い一過性の曲がどんどん世の中に出て行くことになる。
- 新しい複合エンターテインメント
そしてそれにも飽きられてくると、「付加価値」をつけて売り出すわけだ。
それがダンスや、真似したくなる振り付け、握手権や、人気投票の権利といったものに広がって、商品価値を高める。
ファンたちは、音楽だけではなく、そういったものまで楽しんで、お金を払っている。
それが、「新しい複合エンターテインメント」としての日本の音楽だ。
こうした傾向をもっと徹底させているのが、韓国のK−popだと思う。
彼らはアメリカで最近流行しているサウンドを、アメリカの機材やスタッフを使って作り、アメリカで録音する。
振り付けは日本人の振り付けしを使い、とにかく世界の最先端のスペックを組み合わせる。
基本的にはヒップホップで、メロディーらしきものは特にない。歌詞は非常に繰り返しが多くて、詩として体を成しているかどうか疑問。
音楽的要素の重要性は低い、ダンスや人工的な美をパッケージした「複合エンターテインメント」をより徹底させた形と見るべきだ。
以上が服部克久氏の主張だが、ここ30数年来、小生が感じてきた単調なメロディ−と強烈なビートを繰り返す音楽への疑問を解く答えだと思う。
韓流のドラマも似たようなものではないだろうか。小生は見たこと無いので断定はしないが。
しかし、こんな人工的な工作物が何時までも人気を保ちうるはずがない。
花で言えば造花とというところ、いずれ飽きられるだろう。
その後にはどんなのが来るか、生花のような味わいの新曲を待つとしよう。
服部克久氏の論文を見てそう思った。
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