白熱教室カズオ・イシグロ
石井ト
標記のカズオ・イシグロ氏がノーベル賞に輝いたのは、ご存じのことと思う。
実は、昨日、図書館に行く機会があったので、彼の作品を借りようとしたが、数十冊の所蔵本全てが貸し出し中で借りることができなかった。
小生としては、それ以上の追求はしなかったが、昨夜、NHKテレビで、標記の白熱教室が2年前にNHKで放送され、明日、日曜日23:00時から、
再放送されると報じていたのに気がついた。
今朝の新聞で確認したら、NHKEテレで23:00時、確かに番組表に書かれていた。
それはそれで、いいのだが、今朝、ネットで若しかしたら、2年前の彼の白熱教室の関係記事があるのではないかと気が付いて、
さっそく探してみたところ、ありました。
見たところ、どうやら2年前の放送をそっくり映したと思われるものがあったのです。
パソコンやる人は、ここをクリックして下されば見ることができます。
パソコンやらない人は、今夜の11時、NHKEテレで見てください。
興味があればの話ですが、一見の価値があります。
本人は、英語で話してますが、日本語でのナレーションが素晴らしいです。明確な言葉で、きっちり翻訳してくれてます。
これ聴くと、日本語ってこんなに明瞭な言語なのだと思え、日本語の幅の広さを再認識できるでしょう。
何しろ、最近のテレビ見てると、いい加減で意味不明で声だけ大きいのが目立ちますが、この番組の日本語を聴けば、すーっと頭の中に染み入るように理解でき、
愉快な気分になれます。
小生、先ほどネットで見てみましたが、さわりの部分だと私が思う部分を抜き書きしておきます。
カズオ・イシグロ氏曰く
映画や写真では記憶がはっきりしすぎる。記憶に伴う感触が消えてしまうのだ。
そこから、記憶の信頼性という問題が生じてくる。
私が言う信頼できないとは、私たちの現実で起きてることだ。人は真剣な話、重要な話をするとき、実は信頼できないのだ。
大人になれば、なおさら私たちはある種のただの人になっている。私たちに話しかける人は信頼できる語り手ではないことは分かっている。
それは方便だということが分かっているからだ。
人は本心を明かさず、少し飾って話すことが多い。そんなことから私たちは社会で生きるだけで物事を読み取る達人になっているのだ。
だから、フィクションを書いているとき、信頼できない語り手や、信頼できない物語の進行役を用いると、読者は読み取るスキルを使うようになる。
現実の世界で自分を取りまく世界や人に対して使うように。
私が非常に興味を持ってるのは、人が自分自身に嘘をつく才能だ。他人に嘘をつくつもりはなくても本当ではないことを言ってしまう。
そのような信頼できない状態は、フィクションを書くについて非常に有効な方法で、フィクションにピタッとはまる手法だと思う。
このようなことから、彼が表面だけしか見ないで小説を書く人ではないことが分かります。
私が知る初めてのキャラクターです。何故なら、嘘にも価値を認め、それが共感を得たとき真実になると主張するからです。
人間って面白いですよね。私は、真実にしか意味がないと思っていましたが、人間にとっての真実とは、嘘も含まれるかもと、思ったりしました。
少し、ただの人になったかもしれません。
すっきりした日本語を聴きたい方、また、嘘と真実の関係について知見の一つを得たいかた、今夜のNHKEテレ、見たら面白いと思います。
それから、カズオ・イシグロ氏ってすごく面白いです。司馬遼太郎以来かもしれません。或いはそれ以上かも、
何故なら、司馬遼太郎も歴史的記憶に嘘を加味した小説を書きましたが、嘘と真実の関係については意識しませんでしたから。
少しだけ書き足そう。それは宗教のこと。神の存在を示す証拠はない。にも拘わらず、人は神を信じる。それは何故?
カズオ・イシグロ氏流に言えば、答えは、人間の感性が神の存在という記憶の感触に共感するからだとなる。
感触とは、カズオ・イシグロ氏が言うように、記憶に伴う派生的な記憶、ということで、例えば、奇跡とか、異変とか、安らぎ感とかである。
人は単なる記憶だけではなく、その周りに派生する感触を感じて真実だと認める、即ち信じるのだと思う。何故なら生存に有利だからだ。
だから、神のアリバイは必ずしも必要ではない、となる。
若し、神の存在が証明されて、その姿が目前にあると仮定しよう。
それを見た人々は、神の存在を認めはするだろうが信じるだろうか。
存在だけでは、感触がない。だから、存在だけでは信じないだろう。信じるとは、存在の事実確認だけでは不十分なのである。
感触が感じられて初めて信じるとなるのだ。
即ち、その存在が自分にとって有意かどうか、即ち、自分に及ぼす影響の量を計って去就を決めるのである。それが人間というものだろう。
感触とは平たく言えば生存に対する損得勘定ということになる。教義とは関係ないと思う。何故なら原始宗教には教義はなかったのだから。
おそらくあったのは恐怖だったと思う。恐怖とは、信じなかった場合に受ける不利益のことである。
では、教義とは何だろうという疑問が生じる。それは宗教集団を束ねる規則のこと。例えば、八期会でいえば「八期同窓会規則」があるようにである。
であれば、原始宗教にも教義があったはず、「掟」と呼んだ。・・・神道ではどうだろうか?
再放送から一夜明けた今朝、改めて録画を見てみた。実は、昨夜の再放送も見ていたが、いつの間にか眠ってしまっていたのだ。
それで、今朝録画を見たというわけです。
いろいろ、取り上げたい部分は多いが、最後のところで彼が小説を書いたり読んだりする目的を述べたので書いておきます。
それは、ノンフィクションでは事実が分かるが、事実だけでは状況は分かるが真実はわからない。
例えば、「飢饉が来て何人死んだ」というような事実だけでは、渦中の人間の心情は分からない。心情こそが真実なのだ。
従って、彼が小説を読むときは、作者に感謝するそうだ。分かりやすいように人々の心情を伝えてくれたことへの感謝をするとのこと。
そして書くときは、同じように読者と心情を分かち合うために書くそうだ。
斯くて「心情」なる言葉が主役を演じることになったので、「心情」なるものを原語ではどんな単語を使って表現したか調べてみた。
実は、この再放送のYouTube版には、英語版のもあるので、それを聴いてみた。最後のところだけだからできることだが。結果、どうやら、"emortion"と言ってるようである。
日本語は解釈問題を抱えている言葉だから、一義的に単語が決まるわけではないが、確かに"emortion"と言ってるように聞こえる。
辞書で"emortion"を引くと「感情」とも出てくるので非常に戸惑う。何故なら、日本語では「感情」と「心情」では微妙に意味が異なるからだ。
「感情」とか「心情」とか、明治期の造語は未だ定着していないようである。
日本人は、曖昧さを善しとしてるようだが、言語としては未発達だと思う。書いたものだけでは意味を一意的に固定できないからだ。
さて、「真実」について必要なものは「心情」であるという話が出たが、その他にもう一つの「真実」があるのではないだろうか。
それは、「科学的事実」と呼ぶべき種類の「事実」に由来する「真実」だ。従って、この「真実」を「科学的真実」と呼ぶなら、前者は「心情的真実」ということになる。
この2つの「真実」以外にも「真実」はあるのかも知れないが、ここでは簡単のためこの2つの「真実」が世の中にある「真実」の全てだと仮定して話を進めよう。
ところで、出来事とは実際に起きてることであるから、皆、事実である。だから起きてることに嘘はないと言える。
だから、「真実」か「嘘」かが問題になるとき、出来事が嘘なのではなく、その中から人間がくみ取った「心情的感性」または「科学的感性」が、
「真実」か「嘘」かということになる。
それを決めるのは、前者は多数決、後者は「実証」(実験と言ってもいい)だろう。だから、「心情的真実」は多くの人が正解と感じれば「真実」となり、
「科学的真実」は実験で再現できれば「真実」となる。
私たちは、この「心情的感性」は「心情」で理解するが、「科学的感性」を理解するのは何?という疑問が生じる。
答えは多分、「理性」と呼ぶものだろう。となると、人間の頭の中には、「心情」と「理性」が存在していることになる。
従って、ある出来事、即ち「事実」に出会った場合、人間の頭は「心情」と「理性」を総動員して、自分としての「真実」か、自分としての「嘘」かを判定する、となる。
だが、その判定結果において、自分としての「真実」でも、自分としての「嘘」でもない「出来事」(「ただの事実」と呼ぶ。)ってあるのではないだろうか。
例えば、日常的な普通の出来事、というような出来事だ。これは、判定に掛からないただの出来事である。
だから、出来事には、「判定に掛かる出来事」と、掛からない「ただの出来事」に大別され、更に、「判定に掛かる出来事」は「心情的感性」に掛かったものと、
「科学的感性」に掛かったものに分けられる。
我々は、これからも出くわすであろう出来事、即ち「心情的感性」に掛かかるもの、「科学的感性」に掛かるもの、
「ただの出来事」について、適性な区分け区分に区分けするよう心掛けようではありませんか。
アインシュタインは、光という我々にとっては「ただの出来事」に分類される出来事を、「科学的感性」に掛かったものとして認識し、理性を駆使して研究し、
遂に、ニュートン力学を包括してなおかつ全宇宙に適用可能な理論、相対性理論を書き上げました。
我々も、「ただの出来事」に埋没することなく、時を過ごしていきたいものです。
以上、簡単なことだけど文章にすると複雑に見えそうになったので、出来事(事実)と真実の関係を表に示します。
出来事(事実)と真実の関係表 |
出来事 | 心情的出来事 | 科学的出来事 | ただの出来事 |
認識器 | ↓ 心情 | ↓ 理性 | ↓ 五感 |
認識結果 | 心情的感性 | 科学的感性 | ↓ |
判定 | ↓ 多数決 | ↓ 実験 | ↓ |
真実 | 心情的真実 | 科学的真実 | ↓ |
コメントはこちらへメールして下さい。その際、文中冒頭に「HPコメント」と記して下さい。
メールはHP管理者へメールしてください。
<コメント欄> 当欄は上記のメールをコメントとして掲示するものです。