映画「英国王のスピーチ」のBGM

石井ト
昨日、民放で標記のイギリス・オーストラリ合作映画を放送していた。 それを今日見てみた。
実は、1年ほど前にも、確かNHKBsで放送していたのを見たことがあったが、今回、家内が見てるのにつられて、私も、途中からだが見てしまったのだ。
その2度目の閲覧で、新しい発見があったので、書いてみる。
それは、BGMについてである。
最初に見たときは気づかなかったが、最後の英国王のスピーチの場面で、 バックに流れていた曲がベートーベンの交響曲第7番の第2楽章だったことに気づいたが、 思えば変な感じである。何故なら、スピーチの内容が、対独戦争への決意表明と国民鼓舞であるにも拘らず、そんな際どい場面で、 よりによって敵国人の作曲になる曲を使うのが、無神経なように思えたからだ。
しかもその曲の曲調がスピーチの内容とぴったし合ってるのも違和感を増幅させるものだった。
更に、英国王は、そのスピーチをラジオでライブ放送した後、国王一家がバルコニーへ出て、国民に手を振る場面でフィナーレとなるが、 そのような重要な場面で使われたのも、同じくベートーベン作曲のもので、 曲はピアノ協奏曲第5番「皇帝」の第2楽章だった。
そして最後は、これもオーストリア人であるモーツアルト作曲の歌劇「後宮からの逃走」序曲だった。
私は思ったのだが、ヨーロッパ人って、文化財に関しては、仮令戦時であっても、共有してるのかな、と思った。 翻って、わが国では、戦時中、「敵性音楽」なるレッテルを貼って、音楽を区分し、自由に聴くこともできなかったことを思うと複雑である。
このような音楽の使い方は、戦後70年という時がもたらした事象だろうか、それとも、「敵性音楽」なるレッテルを貼る文化が無いのか、どちらだろう?
更に、もう一つの可能性は、クラシック音楽の作曲家で著名なイギリス人はいないという歴史的事実が考えられる。 以前に聞いた話だが、イギリス人はコンポーズ(作曲)より、リスナー(聴き役)としての才能に恵まれている、と聞いたことがある。 本当かどうか知らないが、確かに、イギリス人の大作曲家は居ない?ようだ。ブリテンとかエドガーとかヘンデルとかイギリスで活躍した作曲家はいるが、 ヘンデルはドイツ人だし、ヘンデルを除くとそんなに大作をものした作曲家は居ない。 ・・・であれば、やむを得ぬ仕儀だった可能性が高い。
しかし、この映画の音楽監督はいいセンスしてると思う。曲調がぴったしのを選んでいるからだ。だが調べると、音楽監督はアレクサンドル・デスプラ、 フランスの作曲家だった。
かくて、この映画の背景を飾る音楽という重要なツールは、イギリス人、ドイツ人、フランス人、のコラボレーションの結果できたものであることが分かる。 このように、同一文化を共有する言わば仲間の国を有するイギリス、ドイツ、フランスは、私から見ると羨ましい。
半面、わが国を思うとき、仲間と呼べる国があるだろうか?・・・残念ながら、競争ばかりが目立つ関係のように思えてくる。
このような違いが出る原因は何だろうと考えるとき浮かぶのは、「普遍的価値観」の共有の程度、というものが浮かぶ。 「普遍的価値感」とは何かと言えば、「いいものと悪いものとを評価する基準への認識」ということだろう。 例えば、1+1=2、という認識が正しいと思うか間違ってると思うか、ということだ。1+1=3、という世界認識の人がいたとしたら、こりゃ付き合うのが難しい。 この共通認識の一致が、付き合いが成立する前提だ。共通認識が一致しなければ、話すだけ無駄、となる。
西欧社会と東洋社会との差異は、国民レベルでこの共通認識が共有されているか否かの差だと思う。 この認識の一致は、特に自然科学の発達において重要な意味を持つだろう。 似たような論法から、カルチャレベルでも同様だろうことは想像に固くない。 東洋社会では、忖度が幅を利かし、科学的事実が軽視されてきた。 言い直せば、東洋社会は人治、西欧社会は法治、が根底に流れる社会であると言えそう。今もである。 平たく言えば、「東洋社会では、水戸黄門の印籠がものを言い、西欧社会では事実がものを言う」かな。
以上から、近隣諸国とは共通認識(普遍的価値感)を共有するよう努力しないといけない、となる。・・・その過程では競争はすればいいさ、但しフェアーにね。
 
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