平和主義からみた戦争放棄の正当性

2020/01/11 石井ト
平和主義を論拠に戦争放棄が演繹できる(導き出せる)か考えてみた。
本論は、歴史的事実、作用・反作用の法則から、平和主義を論拠に戦争放棄の正当性が得られるかどうかを考察したものだ。 恣意的にならないように論証した心算だが、そうなっていれば指摘願いたい。
  1. 言葉の定義:
    • 争い、紛争、戦争、みな程度の差はあっても実力と実力の衝突状態を指すので同じ意味の言葉である。
    • 戦争には侵略戦争と自衛戦争がある。
    • 侵略戦争とは他国との国境を越えた戦争をいう。
    • 平和主義とは、世の安定を願う思想である。
    • 安定とは、生物の進化が維持される状態をいう。
  2. 歴史的事実:
    40億年前、地球に生命が誕生し現在に至った歴史は、食うか食われるか争いの連続だった。
  3. 作用・反作用の法則:
    世の中に作用があればそれに応じた作用、即ち反作用が生じる。攻撃があれば迎撃が生まれるのはその所為だ。 例えば、風が吹けば桶屋が儲かる、という次第である。桶屋がなければ木は風に対抗して根を張る、だよね。真面目な話、風が作用で木が根を張るのが反作用だ。
    この法則は、物と物がぶっつかるときの力についての法則(ニュートン力学の第3法則)だが、人間関係では、「因果律」と言った方が分り易いだろう。 しかし、この作用・反作用という表現、感じ出てる!よね。だからそのまま使うことにする。
  4. 争いは安定を齎す:
    この歴史的事実と作用・反作用の法則から、争いは攻撃に対しに反作用として防御力を生むことでバランスする。 従って、争いは安定を齎すと言えるとなる。即ち、争いは安定を担保するのである。
    攻撃は生物が生きている限り起きる。何故なら、食わねばならないから。争いは捕食者と獲物の間、捕食者同士の間、必ず起きる。 攻撃が起きない世界があったとしたら、時間的に瞬時の間だろう。長い時間だとしたら、それは嵐の前の静けさ的安定で、本当の安定ではない。 攻撃が起きる限り防御が起きるので、攻守バランスの安定状態となるのだ。
  5. 平和主義と争い
    平和主義とは世の安定を求める思想であるから、安定を担保する争いが必要となるはず。 従って、平和主義から争いを消し去ることはできない。
  6. 結論:
    戦争も争いの一種であるから、結論として、平和主義から戦争放棄は演繹できない(導き出せない)となる。
    従って、平和主義と戦争放棄を単純に結びつけるのは短絡である。
  7. おまけ:
    以上から、憲法第9条の戦争放棄は、論理性がないとなる。安定が損なわれるからだ。
    戦争放棄を侵略戦争だけに限定すれば整合するだろうと推測している。 即ち、侵略戦争を放棄しても安定が損なわれることのない知恵が発見されるはずだと確信しているのである。 だが恐らくその知恵は自然由来のものではなく、人間同士の取り決めレベルのものだろう。・・・不安定は否めない。 いっそAIに任せるかっ!?・・・。ホモ・デウス(神の人)のお出ましかも。・・・でもそうなると最悪だ!まだ、未熟ながら人間が仕切った方がいい。
  8. 所感:
    • 違和感の解消
      戦争放棄と聞けば、生活人として日頃の厳しい現実に照らし違和感を免れない。やられっ放しで済ますのかと、理想と現実のずれを直観するからだ。 今回の歴史的事実と作用反作用の法則に基づいた考察から、その直観的違和感の理由が分かったような気がした。
    • 教条主義について
      人間由来の教条を掲げて、自然の理を顧みない主張をするのは、独善である。 少なくとも、自然の理を弁えるべきであろう。常識があればの話だが。
    • 集団主義
      生物たるもの、即ち、個と、その集団、から成るものとして、個の死の上に集団の生があることを認識すべきである。 つまり世代交代という仕掛けで集団の命を繋いでいくのである。 よって、個の犠牲を惜しむあまり自衛を怠り集団を犠牲にしてはならないとなる。 ・・・集団主義に見えるかも知れないが、生物たるもの、全てが集団主義的だと思う。それが自然なのだ。世代交代という仕掛けがある限り。
    • 戒め:
      究極の戒めは、汝、短絡すること勿れ!である。時間的に、思考的に!・・・長いタイムスパンで見、論理的であれ!だな。
    • 善と悪の戦い:
      ユヴァル・ノア・ハラリ著の「サピエンス全史」によれば、
      多神教は一神教だけではなく、二元論の宗教も産んだ。二元論の宗教は、善と悪という、二つの対立する力の存在を認めている。 二元論では、悪の力は独立した力であり、善き神に創造されたものでも、善き神に従属するものでもないと信じられている。 二元論では、全宇宙はこれら二つの力の戦場で、世界で起こることはすべてその争いの一部だと説明される。
      (二元論とは、2つの基準が並走する状態のこと。「ダブルスタンダード」という意味だ。1つは善の神、もう1つは悪の神である。 この2神が並び立つ世界のことをいう。:引用者註)
      とあり、
      無数のキリスト教徒やイスラム教徒、ユダヤ教徒が強力な悪の力の存在を信じている。そうした力は、独自に振舞い、善き神と戦い、神の許しなしに猛威を振るう。
      と記している。即ち、戦争放棄は神の国でもあり得ないのである。「まして況や俗界をや」である。
      私は、第二次世界大戦の敗戦国ドイツが、日本と違って、戦後、戦争放棄を憲法化しなかった理由が知りたかったが、これで納得することが出来た。 信仰する宗教が戦争を認めているのであるから、戦争放棄を発想する下地は無かったのだろうと理解したわけである。
      それに対して、
      仏教や儒教、道教、インドのジャイナ教の教義は、神々は人間や動植物同様、 自然の諸法則に支配されていた。
      とするから、二元論は存在しない。神は至上ではないからだ。 従って、神々の戦は無いのである。我々が戦争放棄を発想する所以であろう。
 
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