巡礼考

石井ト
  1. イントロ
    世の中には巡礼と云うものがある。わが国でも「四国お遍路」があり、サウジアラビヤでの「メッカ巡礼」、 スペインでは「サンチャゴ・デ・コンポステーラ巡礼」などが有名。 今回その巡礼という行為の意味するところを私なり考えてみた。
    実は、昨日(7月24日)、NHKテレビ21:00〜22:00「聖なる巡礼路を行く!」をみた。 フランスのパリから、スペインのサンチャゴ・デ・コンポステーラまで、1500キロの巡礼を紹介したものだ。 それを見て思ったのが、宗教の大事さだ。 詳しくは、ここをクリックのこと
  2. 悩みとは
    古代ギリシアの奴隷出身のストア派哲学者エピクテトスによれば、世の中には「我々次第であるもの」と「我々次第でないもの」が存在するそうだ。 人間の悩みは、その「我々次第でないもの」から生まれると言える。
  3. 巡礼の意味
    その「我々次第でないもの」から生まれる悩みから脱け出すため、人は神に祈る。何故なら、原因が我々次第でないものだから、祈るしか方法がないのである。
    苦悩が深ければ、一時祈るだけでは苦悩から脱却することができない。 となると、もっと時間を掛けたらどうか、という発想が生まれる。 その結果、人は巡礼に出るのだろうと思う。
    この場合、悩みという「我々次第でないもの」を、祈りという「我々次第であるもの」で、コントロールしようとする舞台(場)が巡礼なのである。
  4. 祈りとは何か?
    では、祈りとは何かと言えば、祈りとは神への信頼の表明だと思う。
    私はあなたを信じている、だからその代わり、苦しみから解放(救う)して欲しいと訴える行為だ。
    神とは、人が全能だと信じているバーチャルな存在者のことである。これは本能による認識だし、後付けのもある。
  5. 宗教の意義
    宗教の意義も、巡礼の意味と同じだろう。即ち、悩みという「我々次第でないもの」を、 祈りという「我々次第であるもの」で、抑制する場を提供するのが宗教の意義の一つなのだ。
    よく神に救われるという表現をするが、この「救われる」とは、「我々次第でないもの」を「我々次第であるもの」で抑制出来たとの自覚感を云うのである。
  6. 未来
    • 巡礼の未来
      世の中に「我々次第でないもの」がある限り、巡礼は存続し続けるだろう。従って宗教も。
      「我々次第でないもの」は、増々増えるだろう。世の中がますます複雑になるからだ。
    • 「我々次第でないもの」の未来
      世の中がますます複雑になるのは、科学技術の更なる発展が原因。
      科学技術は、我々に幸せを齎すが、反面、不幸せも齎す。だが科学技術の発展を制限することはできないだろう。
      誰かが、嘗て「2番目では駄目ですか?」と言ったが、人間、2番目では駄目なのです。1番を目指してこそ人間の本能(性)が満たされるからです。 「ここいら辺でいいや!」と2番目狙いでは、人類は衰退します。・・・短絡的に、科学技術の発展を中止しても、長続きはしないでしょう。 何故なら、本能行動ではないからです。
      従って、科学技術は増々発展し、「我々次第でないもの」は増えるとなります。
    • 本能の改変
      では、科学技術の発展を止めるための障害になる本能を改変する可能性を考えよう。
      可能性はあるが、そこまでしてまでする価値があるとは思えない。 だが、若しやるとしたら、人はホモサピエンスではなく、「ホモサピエンスネクスト」(仮称)となり、異次元の話となる。
  7. 私の巡礼
    小生の巡礼は佐賀墓参だ。身延山へのお参りもある。四国の金毘羅さんへのもあり、コロナ禍が過ぎたら実行したいと思っています。 私の場合は、悩みよりお礼参りの色合いが強い。今のところだが。
  8. ALS(筋萎縮性側索硬化症)について
    このところ、ALS患者への嘱託殺人事件が報道されている。 このケースは実に同情に値する事例だと思う。なぜなら、患者は自分では何もできない体になっていたのであるからして、 世の中の殆どのことが「我々次第でないもの」で、「我々次第であるもの」が無い状態にあったわけである。
    身動き出来ない、食物は胃ろう、呼吸は人工心肺、という状況で頭脳明晰な場合、一日24時間を身動きも出来ず時の過ぎるのを待つ毎日、これって地獄だよね。
    この場合、生きてること自体が悩みというケースだ。祈りも無力、神も無力だ。本人決裁の自死の権利、認めるべきだろう。生かせばいいというものではない。
    この事例から言えることがもう一つある。 それは、科学技術が進んで将来、人間の体は死んでも、首から上の頭脳だけ生かす、というアイデァがあったとしても、実用はあり得ないとなることが予測されることだ。 若し実現しても、脳が退屈して自死を望むからだ。
  9. スティーヴン・ホーキング博士の場合
    イギリスの有名な理論物理学者スティーヴン・ホーキング博士は、ALS患者だった。 彼は、1942年生まれだから、我々より4歳若いが、才能では数百歳を超える遥かな先輩と言える存在だった。 ALS発症は1960年だが、途中で進行が急に弱まり発症から50年以上にわたり研究をつづけた。(以上、ウイキペディアより抜粋)
    この事例から言えることは次の2点である。
    • 急にALS進行が弱まるという事実。
    • 巡礼の未来 肉体的機能の一部は停止しても、脳が活動すれば世界的な研究成果を成し遂げ、 しかも76歳の天寿を全うするまで50年以上にわたり研究をつづけたという事実。
    このホーキング博士の事例をどう評価するか分れるところだろう。次の2つの可能性がある。
    • 天才と凡才では平等に評価できないというものだ。即ち、誰でもが、ホーキング博士ほどの頭脳は持っていないから、 その事例を凡才の人には当てはまらないということである。
      その凡才と天才の差は、次の彼の主張を面白いと思えるかどうかの差だろう。
      タイムマシンが将来的にできるかどうかに関しては「私は誰とも賭けをしないだろう」とした。 その理由について、「賭けの相手は(もし本当にタイムマシンが作られるならそれを使って)不公平にも未来を知っているかもしれないから」としたこと。 (ウイキペディアより抜粋)
      ここにユーモアを感じる人は、可能性をのこしていると思う。
    • あるメカニズムが働いて「我々次第でないもの」を「我々次第であるもの」に変えた。如何なるメカニズムかは不明だが、DNAレベルの変化が生じた。
  10. おまけ
    少し息抜きしよう。
    カントリーミュジックの "Darling Say You'll Love Me When I'm Old" だ。ここをクリックのこと
コメントはこちらへメールして下さい。その際、文中冒頭に「HPコメント」と記して下さい。 メールはHP管理者へメールしてください。
 

<コメント欄>   当欄は上記のメールをコメントとして掲示するものです。