改憲論

石井ト
昨日辺りから、急に、衆議院解散が現実味を帯びてきた。 それについては、皆さんご存じのことだと思う。
加計学園や森友学園などの疑惑隠しだと野党は批判しているが、本当のところは、自衛隊を憲法に明記するという憲法改正を実現することだと私は推測している。
小生は、自衛隊の憲法明文化、実は必要なことだと思っている。 理由は、安全保障の主要な機関である自衛隊が、憲法に記載がないというのは、おかしいからだ。 いままでは、その矛盾を憲法解釈というレトリック(修辞法)で誤魔化してきたが、そろそろ限界だ。 ばっちり、「国防軍」を明記して、すっきりするのが国益だ。
その国益については、専門家がきっちり表現しているので、それを見てほしい。
それは、
憲法とは何だろう。 それは、国益とは何かを定義した国益定義書ということではないだろうか。 なのに、いままで、憲法問題で、「国益」が表に出たことがあっただろうか。 小生が知る限りない。
「平和」は国益の確保を目的に憲法上に記載されてる。だから、「国益」を無視した「平和」って意味がない。 「平和」にとらわれないで、「国益」という観点から憲法を見直すのは意味がある。 だから、この際、「国益」という観点から憲法の見直し、是非やってもらいたい。
見直した後は、上記の志方俊之・帝京大名誉教授が言うように、
憲法に自衛隊の存在を明記し、きちんと位置付けることが重要だ。 その場合、義務教育を終えた人が読めば100人中90人が「自衛隊が合憲である」と分かる文章にしてほしい。 さまざまな解釈が可能で、「そうとも読み取れる」とあいまいになるのが一番困る。
その上で「安全保障基本法」を制定し「自衛」の中身を定め他国との共同行動のあり方なども決めておく。 そうすれば現場の隊員が疑問を持った時に「できるか、できないか」の判断がつくようになる。今は憲法に「自衛隊」の文言がないから基本法さえ作れない。
日本の立ち位置を明確にし、中長期的な脅威に備えた防衛力の整備を始めることが肝要だ。
となる。
日本人は、思考停止する民族だ。 目の前のことについては強いが、眼前にないが将来起こるかもしれない事象については思考停止するのだ。 例を挙げれば、太平洋戦争の開戦が挙げられる。 今日の毎日新聞朝刊の「余禄」にあった記事から抜粋を紹介する。
真珠湾攻撃の直前、日本は絶望から戦争を始めようとしていると東京の空気を伝える米国外交官に国務省の極東担当ホーンベックが反論した。 「歴史上、絶望から戦争を始めた国が一つでもあったら言ってみろ」。 だが米国の石油禁輸下の日本の為政者は備蓄の枯渇という将来の絶望的悲観論と、今ならアジアで軍事的に優位という短期的楽観論を両にらみして奇襲に賭けた。 禁輸の効果を疑わなかったホーンベックには信じられぬ判断であった。
我が国は、開戦に賭けたわけだが、賭けはいわば思考停止の一形式であるから、真珠湾攻撃は思考停止から始まったとなる。
考えてみれば、戦争末期の特攻も同じである。どうしようもない現実を前に思考停止しざるを得なかったとなる。
そんなわけだから、将来おこるかもしれない戦争について思考停止しないで、ちゃんと考えてもらいたい。 いまは、戦争が無いに賭けてるが、そんなに甘くはないだろう。現実世界は。
そこいら辺のことについて、上記の筆者は、「憲法に平和と書いておけば平和が守れると、何十年たっても同じ話をしていてはいけない。」と書いている。 私は、その通りだと思う。憲法に平和と書いてあれば水戸黄門の印籠のように威力があるかといえば無いというのが真実だろう。 あっても国内向けが精々だ。それが水戸黄門の印籠の限界だ。だから外国向けに有効なものにしないといけない。 言いたいことは、現実を直視せよである。逃げないで!だな。思考停止は禁物だ!でもある。
では、現実とは何だろう。それは、人間の真実をみるということだ。 ・・・兎に角、いろんな人がいる。それは、我々、79年間生きてきて、誰しもが思い当たることだと思う。 特に注意しなければいけないのは、人間とは神性と獣性を併せ持つ存在だという事実である。 何人も、他の全ての人が自分と同じ規範で考え行動すると思ってはいけない。多分、人の思考・行動を規制する規範は、人間の数ほどあるだろう。 大概は微小な差異の範囲にあるが、怖いのは跳びぬけた例外が存在するということだ。その例外が力を持つと大変。・・・それが現実というものの正体である。 家族のため、友人・知人、同胞のため、涙を流したくなければ、現実から逃げず、直視しなければならない。即ち、思考することだと思う。
おまけ
同じく、今朝の毎日新聞朝刊のコラム「水説」に次のような記事が載っていた。
米国の女性雑誌「アルーア」9月号が「もうアンチエイジングという言葉は使わない」と宣言し、話題となっている。
よくない例としてあげたのが、こんな言い方だ。
「彼女はとてもすてきだ。40歳には見えない」
「年のわりにはね」といった限定をつけず、すてきだ、美しいと言えないのはなぜかという疑問である。 加齢にあらがう美容法なども取り上げてきた雑誌にとって、広告への影響などを考えると勇気のいる方針転換だろう。
日本では、そうした動きはあまり耳にしない。ただ、歌でさりげなくアピールした人を思い出した。 シンガー・ソングライターの竹内まりやさんの「人生の扉」という曲だ。今年62歳になった彼女が、50代の節目を迎えた後に作った。
英語をまじえた歌詞で、50歳を「nice」(いいね)、60歳になるのは「fine」(すてきだ)と歌う。 70歳は「alright」(申し分ない)し、80歳になっても「still good」(まだいける)と語りかける。 そして、90歳を超えて「will maybe live」(まだまだ生きるだろう)と歌詞は続く。
この曲は最近、ある場面での定番ソングの一つになっているそうだ。中高年が集まる同窓会の締めくくりに歌うのだという。
この曲は、以前にも取り上げた記憶があるが、また、聴いてみよう。限定付きではない人生を願って。 ここをクリックして下さい
 
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