となる。
その影響
自分がラーメン屋に行った時間が起点になるということは、話者の主観的で相対的な時間を起点とすることになるから、
例えば、「戦争放棄」と言う場合、その話の起点が、終戦直後なのか、それとも戦後75年も経った現在なのか不明のままの議論となる可能性がある。
この場合、英語国民なら、今を発話の時間として議論するだろうが、日本語国民なら、各人が夫々発話の時間を決めるから、発話の時間が今の人もいれば、
終戦時の人もいて、発話時間がバラバラな議論となる。
そして、最も恐ろしいことは、議論の参加者が、そのことに気付かないことだ。議論が延々と続いて収束しないはずだ。
そりゃ、誰でも戦後間もない時間のころは、戦争放棄であっただろうが、それが現在となると話が違ってくる。
そのような曖昧さを包含したまま、戦争放棄論を論ずるのは、意味がない。議論に先立って、時間起点を確認するべきであろう。
知性の式
だが、英語流の時制にしろ、日本語流の時制・相にしろ、「知性 = ƒ(知能,情報)  」は保持されるべしである。
結語
日本語の時間鈍感性とは、話者の主観的で相対的な時間を起点とすることにある。
従って、複数の人が参加する議論には起点となる時間の設定が必要である、となる。
あとがき
日本語の時制(相)は、話者の主観的で相対的な時間を起点とすることにあるが、英語の時制は、話者の発話した時間が起点となる。
この二つの立場の違いは大きい。従って、分岐点がどのようにしてなされたか興味がある。何が影響してそうなったか?・・・面白いテーマだと思う。
・・・小生の浅知恵では見当さへつかない。運命の分かれ目や如何に!である。・・・言わば、クオ・ヴァディスの言語版だ。
片や主観的、片や客観的、立場が全然違う。別な言葉で言えば、近視眼的と俯瞰的。・・・何かが作用したはずだがそれが分からない。
追記2:日本語進化期待論
6−a「相とは」で使った日本語の例、「何していたの」を相を意識して強いて言いかえると、
「今電話で話すという未完了の行動をしているが,それ以前に完了した行動は何か」
となるとのことだが、これを英語で言えば、
「What have you been doing?」
である。
これが、時制を持たない日本語構文の表現力の実態だ。
データ量を比べると、日本語が、全角文字36字を要しており、英文は、半角文字25字である。
ビット数は、全角文字は32ビット/全角文字1字であり、半角文字は16ビット/半角文字1字であるので、データ量としては、
日本語の方は1152ビット、英文の方は400ビットである。
この差により、日本語は英文の3倍のビット量(ビットとはデータ量の最小単位)、即ち、データ量を使って、1つの情報を表現するとなる。
眞に、構文レベルの発達遅れが、その差を齎していると言わざるを得ない。言っておくが、この日英の2つの文章の持つ情報量は全く同じである。
情報量とは、その文章が持つ内容の量だ。全く同じ内容のことを別の言葉で表現しただけのものである。
その意味的に同じことを表現するのに、それに要するデータ量に3倍の開きがあるというのは、
3倍の方の表現力の効率が極めて低いということである。これが現実というものであり、言葉が磨かれてこなかったという歴史を語っている。
我々が英語文化圏の人たちと同じ情報量で生活するとしたら、我々は、
「今電話で話すという未完了の行動をしているが,それ以前に完了した行動は何か」
というような語調で生活しなければならないことになる。
だが、現状は、それを嫌って、「何していたの」と、省略された表現で済ませている。・・・言わば、厳密さを欠いた省略言語生活であると言わざるを得ない。
この延長上の先端にあるのが「俳句」だろう。
・・・このそぎ落とし文化とでも言えるもの、言語発達の歴史を進化させるものなのか、それとも劣化させるものなのか、・・・わからない。
だが、俳句は感性の世界の話であるから、知性とは切り離して考えるべきだろう。
だが、このままでは済まないだろう。
今、日本語の中に、横文字が増えているが、国語審議会は何も言わないし、自然に任せているようだ。
他国の状況は知らないが、わが国はそこいら辺が野放しのようである。だから、構文についても進化が進むのではないだろうか。
それに期待したい。
余談ながら、最近、テレビで出てくる日本人のトークが、たどたどしい。何言ってるのか分からないのばっかだ。
昔、学校の国語の時間、小生の経験では退屈そのものだった。結局、憶えているのは、文法の時間で習った言葉「未然形」という言葉だけ。
意味するところは全然覚えてないし、今調べても分からない。未だ然らずだから、時間的に完了してないことをいうのかと言えば、そうでもないようだ。
少なくとも、時間軸に関連付けた説明はない。そこからも分かるように我が国語には時間軸という考えは殆ど無い。
・・・文法は、国語学者志望なら知らず、一般の庶民には無意味な教育だと思う。
やるなら、文法より、文書構造、文章構造、が必要だろう。建築の場合、建屋にとって重要なのは構造だ。
畳敷にするかとか壁紙をどうするかなど、放っておいてもうまく行く。だから、文法など細かにやっても一般人にとっては意味がない。・・・と思う。
この中で、特に重要なのは、国語文法において時間軸に関連付けた説明がないということ。これって不思議だよね。
何故なら、我々は時間と空間の中を生きてるのだから。
日本語話者の時間次元への意識の低さを示しているのだろうか?・・・英語の文法書ではどうかな?
繰り返すが、言いたいことは、「日本語は英語と同等の情報を表現するのに、英語の3倍のデータ量が要る。」ということだ。
要するに、極めて効率の悪い言語だということだ。
追記3:日本語の省略言語生活:夫婦げんか限定論
我々は、追加2、6−a「相とは」で用いた日本語「何していたの」のような省略言語を使って生活している。
この言葉のデータ量は、7文字であるから、224ビットとなる。
この言葉の英語表現の場合のデータ量は、既出のように400ビットである。
従って、我々は普段の生活においては英語より少ないデータ量で過ごしているとなる。
この言葉のデータ量は、英語の56%であるから、我々は、英語生活者より約半分のデータ量で生活していることになる。
気になるのは、この省エネとも言える言語活動で、生活が正常に保たれるか否かということだ。
通常は、淀みなく運用されるとしても、非常時にもそれが保たれるか。それが問題だ。
歴史的に見ると、太平洋戦争決断時の議論に於いて、十分な情報量の下、議論されたかどうかが気になるところである。
若し、英語国家の場合の同種の議論の情報量と同じ情報量を確保しようと思えば、非省略形の日本語を使わねばならないから、
英語議論の場合の3倍、また、省略形日本語の場合から見れば、約6倍のデータ量が所要となる。
詳しく議事録(有ればだが)を見れば約6倍の議論がなされたかどうかが判明するだろうが、
そんな暇ないので、ここは推定で考えるなら、多分、そんな量の議論は無かったことだろう。
声の大小こそものを言ったのだろうから。声高に言うには省略形が適しているのだ。
となると、日本語の省略言語生活は、非常時に於いて悲劇を齎すと言えることになる。
何故なら、声高の情報量は小さいからだ。云わば、ヤーサンがかっときて発するようなものを思えば納得だろう。
教訓は、日頃からちゃんとした言語生活が所要ということだ。
ちゃんとした言語生活とは、理性的生活をするということである。
例えば、「女はいくらでも嘘をつけますから。」なんて言わない生活のことだから、難しいかも?
日頃から、そんな濃厚な言語生活が出来ないというなら、通常時と非常時に分け、通常時には省略型、
非常時には濃厚型の言語生活をするように心がけねばならない。・・・でも、これは多分難しいだろう。
そんな機械みたいにボタン押せば切り替わるというものではない。
矢張り、濃厚型を日常化しなければならないだろう。江戸っ子からは嫌われるだろうが、またの悲劇をくりかえしたくなければ仕方がない。
あんなポンポン言って終わりにするのは夫婦げんか限定にすべきである。
余談ながら、戦争反対論者は、口で念仏のように「戦争反対」を唱えるのではなく、言語生活の進化を計るべく運動すべきだろう。
その方が、よっぽど効果的だと思う。何故なら、戦争は、少ない情報量が原因で起るのだから。
夫婦喧嘩なら、お互いよく話合えと説教するように、戦争論議もお互いよく話し合うべしと忠告しよう。
但し、十分な情報量の下で、という条件が付く。
それが戦争回避の必要条件だ。十分条件なら嬉しいが、そうまでは言えないだろう。悲しいかなではあるが。
だが、必要条件は甘いものではない。例えば、「核抑止力」は、戦争回避の必要条件の一つになる資格があると言うように、
厳しいもので甘くはない。
戦争反対は、口で唱えるだけではなく、真剣にこの必要条件を考えることで実効的なものになると思う。
なのに、戦争反対論者は、口で念仏のように「戦争反対」を唱えるだけ。芸が無さ過ぎる。
追記4:時間同期論
日本には約1億3千万人、地球には約60数億の人がいる。
そのような多数の生命体を共存させ続ける仕掛けの基本に、「時間」がある。
また、コンピューターの基になるICチップの制御回路の動作の同期をとるのも「時間」である。
同期をとるとは、ある決められた時刻に既定の動作をするということだ。
人間なら、4月1日、一斉に嘘を言う、というようなものである。この場合、同期をとれば許されるが、同期しない嘘は指弾される。
従って、大概の人は同期をとる。
また、暦というものも、同期をとるための日程表だ。
古代エジプト王朝、インカ帝国、徳川幕府、などなど、暦を整備することで、人民の上に立った。
このような時間同期というシステムを、人間の生活や動植物など、自然に行って長い歴史を歩んできた。
多くの生き物が時間同期で同期をとることで共存してきたといっていいだろう。
そうでないと、多数のものを統合的に生存させ続けられないからだ。
だから、人間の思考回路でも、時間同期の仕掛けは、重要な役割を演じているはず。
なのに、日本語の時間軸への関わりの少なさは何としたことだろう。不思議だ。温暖で島国と言う閉じた環境が、時間厳守の思想を必要としなかったのか。
追加2の余談でのべた、国語文法において時間軸に関連付けた説明がないこととも重なってくる。・・・どこか一本抜けてるようで気になる。
追記5:詩文について
文章には、散文と詩文がある。散文は、知性を文字化したものであり、詩文は感性を言葉化したものだ。
今までのは、主に散文について記したもので、詩文については、当て嵌まらない。
式で書けばこうなる。
      感性  = ƒ(感能,情報)
なお、ƒは関数記号である。
まとめ
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日本語の話者、即ち日本人は、時間(客観的で絶対的な時間)に鈍感ということを自覚すべきである。
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複数の人間による議論に於いては、発話の時間(客観的で絶対的な時間)を設定すべきである。
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日本語は英語に比べ時間分解能が低い。即ち、英語に比べ単位データ当りの情報量が少ない言語である。
-
日本語知性は英語知性に対し劣る。但し、次の条件下にて。
- 知性は知能と情報に依り決まる。( 感性  = ƒ(感能,情報))
- 情報増なら知性増となる。(知性関数は情報に関して増加関数である)
- 日本語知能と英語知能は同等。(日本語知能=英語知能)
脱情報音痴!
標題「日本語の時間鈍感性」の時間とは、情報のことを指している。
日英の言語の比較から、日本人の知性において情報の占める価値の低さが見えてきた。
日本人は情報音痴であると言える。
例えば、
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今度のコロナ禍でも、日本政府のIT戦略を担当する中央官庁幹部は「日本に接触確認アプリなんて考え方はこれまで全くなかった」と明かすなど、
情報音痴の例は枚挙に暇がない。
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また、先の戦争のガダルカナル島攻防戦において、ガダルカナル島防衛の米軍は、ジャングルに集音マイクを設置し、
忍び寄る日本軍の襲来を察知していたのに、そうとも知らず、奇襲をかけ失敗を重ねた。哀れなのは兵隊だ。
指令側が最善を尽くした作戦ではなく、情報面での怠慢が齎した惨禍だったのだ。哀れなのは兵隊だよ。
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また、米軍は日本軍の暗号を解読していたのに、日本軍はそれに気付かなかった。
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また、ミッドウエイ海戦は、米軍の仕掛けた罠にはまったものだった。
などなど・・・そも、開戦自体に情報軽視の体質があった。
等がある。
負けるべくして負けた戦争だったが、その反動で、戦争放棄とはまたまた情報軽視の短絡発想だ。情報音痴の癖は治っていない。
わが国の繁栄と世界の平和を願うなら、情報とまともに対峙しなければならないと思う。偏しないで。
時間戦略即ち長期計画を構築すべし
日本語知性は、時間情報に劣る知性であるから、結果として、知性の磨き方が時間以外の情報に傾いていく。
その結果が、例えば、日本刀のような逸品を産む。だが、その反面、イノベーション(技術革新)に弱い。
従って、短期間の成功は獲得できるが、長期間は持続しない。文明開化で近代化に成功したが、長続きはしてないのがその例だ。
従って、時間軸に対する知性増の傾向は右肩上がりではなくジグザグの鋸型となる。一山あってその後は山が来ないよりいい。
だが、理想は、右肩上がりの増加曲線だ。
時間戦略こそ構築すべし。
先の例、日本政府のIT戦略を担当する中央官庁幹部は「日本に接触確認アプリなんて考え方はこれまで全くなかった」と平然と言い放つのではなく、
恥じる感覚をこそ持てるようにもっていかねばならない。・・・そのためには、時間戦略即ち、長期計画を構築すべし!だな。