One Voice Children’s Choir

H29/7/30
石井ト
今日の関東は曇り、気温も30度程度で、過ごしやすかった。
こんな時、ふと点けたテレビで、標記の音楽番組をやっていた。
2002年ユタ州ソルトレークシティで開催されたソルトレーク冬季オリンピックの曲に、 音楽家マサ・フクダ(福田真史)氏の楽曲「It Just Takes Love」が起用され、 それをきっかけにマサ・フクダ氏のもと少年少女合唱団の誕生を迎えます。 オリンピック終了後も残ったメンバーらから継続を願う要望を受け、のちに名前を改め現在の "One Voice Children’s Choir" に成った。
テレビ番組はNHKBS1夜7:00からの「マサと奇跡の合唱団」で、その中で歌われた曲、"When You Belive"を聴いてみよう。 口で説明するより手っ取り早いから。ここをクリックして下さい
素晴らしいコーラスですよね。関東八期会のコーラス隊より上手い。 曲名は "When You Believe" (あなたが信じるとき)です。メンバーは皆素人、インクレディブル!ですよね。 画面の右側の「もっと読む」をクリックし、下の方にスクロールし "Lyrics" のところまで行けば英語の歌詞に続いてヘブライ語とフランス語を含んだ歌詞も載っています。ご参照下さい。 ヘブライ語の発する音、私にとっては生まれて初めて聴く音。珍しいのでウイキペディア(ネット上の百科事典)から以下抜粋しておきます、ご参考までに。
ヘブライ語には、古代にパレスチナに住んでいたヘブライ人が母語として用いていた言語古典ヘブライ語(または聖書ヘブライ語(英語版))と、 現在イスラエル国で話される現代ヘブライ語とがある。現代ヘブライ語はヘブライ語で「イヴリート(イヴリット)」と呼ばれ、 古代の聖書ヘブライ語は Leshon HaKodesh あるいは「聖なる言葉」すなわち「神の言語」という名前で知られていた。 古典ヘブライ語はユダヤ人が世界離散(ディアスポラ)したころから次第に話されなくなり、後の時代の離散ユダヤ人は、 かわってアラビア語・ラディーノ語・イディッシュ語などの諸言語を日常的に用いた。そのためヘブライ語は二千数百年の間、 ユダヤ教の言葉として聖書(ヘブライ語聖書)やミシュナーなどの研究・儀式・祈り、 別々の言語を話す遠隔のユダヤ人共同体同士がコミュニケーションを取る場合などに使われるのみであった。 しかし、20世紀にヘブライ語が現代ヘブライ語として再生され、 他の言語に替わってイスラエル国に居住するユダヤ人の日常語の地位を占めるようになって現在に至っている。
画面右側にある英文に、次のようなことが書いてある。
Masa Hukuda(福田真史氏)に指揮されたOne Voice Children's Choirは、フランスのオマハビーチ、ブルターニュアメリカ墓地、 ノルマンディーの記念碑で撮影され、英語、ヘブライ語、フランス語で、演奏された。 この歌は、D-Day侵攻におけるノルマンディーのユタ、オマハ、ゴールド、ジュノとソードのビーチで戦い犠牲となった兵士を含む第二次世界大戦の犠牲者、 及び、ナチスホロコーストで命を落とした何百万人ものユダヤ人の犠牲者に捧げられたものである。
One Voice Children's Choirは、アリス・フェルナンドによってブルターニュ墓地での第73回D-デー記念日に読み上げられたこの詩を、 フランス全土の人たちと共有したいと考えている。 アリス・フェルナンドとその家族は、ヨーロッパ解放のために連合軍が払った犠牲の受益者にしてその直系子孫である。
最後の段落部分だけ、原文を書いておくと、次のようである。
One Voice Children's Choir would like to share a poem that was read by Alice Fernandez, a French national, at the 73rd D-Day commemoration at Brittany Cemetery. Ms. Fernandez and her family are direct descendants and beneficiaries of the sacrifices made by the Allied Forces during the liberation of Europe.
久し振りに英文を訳してみた。思ったことは、英語って細かいところまで書いてある、ということ。 日本語ではここまでは書かないと思う。例えば、「ヨーロッパ解放のために連合軍が払った犠牲の受益者」という表現、 日本人はこうはは書かないだろう。大概は、「連合軍によるヨーロッパ解放の受益者」くらいだろう。 この表現の正確さ、とても敵わないなというところである。 最近の日本語のいい加減さ、心配だ。ほぼ幼児語だから。感動を表すにも「あれーっ、凄い!」で次の詞が出ない。皆な同じだし・・・。 日本人って少しづつ劣化しているのではないかと心配。問題は言葉だと思う。正確に表現するのが言葉の役目。 文字だって、読みやすいというのが基本のはず。だが、書道の世界を見ると、読み難い、というのが流行ってるようだ。 基本を忘れて進歩があるだろうか?・・・あるのは劣化だろう。
もう一つだけ所感を書けば、この演奏の舞台となったフランスのオマハビーチ、ブルターニュアメリカ墓地、ノルマンディーの記念碑など、 レイアウトがすっきりしているのに目が行く。 日本では、こうは行かない。何故か?・・・。 どうも考えるに、西洋人は本質的に物事を記号化する性質を持っているようだ。 記号化とは、見たものの本質を突き詰めることで得られるユニークさのこと。 ユニークとは、他と違うということだ。同じものはそぎ落として最後に残るエッセンスのようなものを形にする、それが記号化である。 漢字とアルファベットの違いは、漢字が見たものをそのまま形にしたものであると言える。 結果が同じになると文字としての役割に支障が生じるから、それなりの相違点は確保してあるが、基本は見たものをそのまま形にしたものだ。
そこへ行くと、アルファベットの場合、見たものを一旦音にして、その音の違いを数十の形で表し記号化した、となる。 この思考法の相違は、無駄なものを排除してシンプルにするという感性である。 みそもくそも含まないシンプルさがいい。物理学的に言えば、美しいとなるのだ。 物理学って、シンプルな原理で世の中の事象全てを説明可能にすることが美なのである。 そんな審美眼から、世の中の記号達や人工物を見てそう思った。要するにごちゃごちゃは嫌、すっきりがいい、ということである。
多分、文字の発明のとき、それを使う人たちの頭の回転はそれ程速くなく、不器用だった可能性がある。 不器用だから、憶える文字の数を少なくしざるを得なかったのだろう。 一方、漢字などの絵文字の方は、文字の数を制限する必要がないほど器用な人達だったのだろう。 そう言えば、漢字って凄くよく出来ていると思う。だが、現代の科学技術を齎したのは、憶える文字の数が少なくて済んだ人達だった。 そんな観点から、記号化に対する感性の持つ意味、とても面白いよね。 多分、記号化って、本質を見極める感性の顕れだと思う。 絵文字の方の人は、本質には鈍感で、見た目のディテールに拘わるという思考法の持ち主、或いはカルチャの構成員だったのだろう。 絵文字を並べて、今一段の抽象化を図る感性・あるいは思考法は持ち合わせなかったのである。 その結果、漢字として10万とも20万ともいわれる文字との格闘の歴史が展開され、今に至っても、なお、その段階に留まっている、となる。 問題は、どの文字文化が文化の発展に効率的かということではなく、問題の本質に迫る思考法の適性さこそが重要だと言うことだと思う。
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