最近描いた絵

徳永 博
戦災に遭い、幾度も再建計画のあった東京駅丸の内驛舎が去年の10月、明治35年創建当時の姿に蘇った。 1879年(明治12年)霞ヶ関にあった工部大学校(東大工学部の前身)を卒業した辰野金吾が設計した赤レンガ三階建の旧東京駅舎は、 1945年東京大空襲で外壁のみを残し消失した。 戦後日本国有鉄道は、この外壁を使い2階建ての駅舎に応急修理した。創建当時南北のドームを覆っていた六角基盤のルネッサンス風丸屋根は、 修築後六十余年、銀座丸の内界隈を闊歩していた進駐軍兵士の三角帽子に似せた、貧しい造りの三角屋根を東京の空の下に晒していた。 私は子供の頃新聞紙を折ってこの進駐軍の帽子を造っていたので、この戦後東京駅の三角屋根は、何時までも占領時代を思い出させて嫌だった。
それが創建された明治時代の姿に戻ったと聞いて、私は涙が出る思いだった。ほぼ同時期に建立された東京スカイツリーよりも首都東京のシンボルとしてふさわしい。 旧国鉄がJRに再編され、京都や大阪、博多や佐賀の駅舎が次々と何の変哲も無い機能一点張りの商業施設に変身して行く中で、東京の表玄関だけがもとの姿を取り戻したことは、 各地の赤レンガ庁舎や古民家を愛でてきた一画生としては、無上の喜びである。 早速丸の内に行ってみたが、何しろここは1日十数万の人々が行き交うビジネス街の真中にあるので、とても悠長にスケッチブックなどを拡げておれない。 仕方なくざっと輪郭を掴み、あとは携帯したデジカメで写し取った駅舎の写真を元に、ようやく二枚の水彩画を仕上げた次第である。
なおこの駅舎の設計者、辰野金吾博士は肥前唐津の出身、日本銀行、旧日本生命福岡支店等幾多の明治期官衙ビル建築の他、 郷里佐賀県武雄温泉の楼門を設計した人としても知られている。 また長男、辰野隆はフランス文学者として有名である。私はいま、辰野隆随想全集を読みながら、復元された東京駅舎に重ねて、 同時期ナポレオン三世時代に造られたパリの町並みと、今は美術館になったオルセー駅舎の面影を追っている。
                
 
 
 
 
 
 
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