武相荘散策

石井俊雄
過日、全陶展を覧たあとの雑談会で、武相荘を観ようという話がでた。最近、些か視力を落としている坂井君を引っ張り出すのと、 2009年にNHKで放送されたテレビドラマの特別番組「ドラマスペシャル・白洲次郎」で知った白洲夫妻に興味を持ちその旧宅を見たいと思ったのだ。
それで、去る12月11日(水)、小田急線鶴川駅にて集合し、白洲夫妻の旧宅を訪ねた。
旧宅は、現在は「旧白洲邸・武相荘」として、記念館・資料館となり一般公開されている。 館長は白洲夫妻の長女・牧山桂子。武相荘の名の由来は「武蔵の国と相模の国の境に位置する」事と「無愛想」を掛けたもの。
 
エントランスを入ると、いきなりヴィンテージ・カーのお迎えだ。
車は、1916年製ペイジSix−38。説明書きの看板にそのように書かれている。
更に、「神戸一中に在学していた当時17歳の白洲次郎が、父白洲文平から初めて買い与えられたアメリカ車の同型車。 Six−38は1915年発売。」とあった。
父白洲文平は、兵庫県三田市の出身。三井銀行や鐘紡に勤めた後、 兵庫県神戸市中央区栄町に貿易会社白洲商店を創業し綿貿易により発展して巨万の富を築いた。 豪放ながら傲慢な性格で、周囲からは『白洲将軍』と畏れられた。建築が趣味で多くの邸宅を次々に建て、それらは『白洲屋敷』と呼ばれたそうだ。
偉い父親だったというべきだろう。何故なら、戦後、マッカーサー司令部と真正面から対応できた数少ない人材、白洲次郎を育てたのだから。 小生に言わせれば、その妻の正子は、その足下にも及ばない気がする。 でも、その細やかな審美眼、覗ってみたい。
正子の祖父樺山資紀は、薩摩の鹿児島城下二本松馬場に薩摩藩士・橋口与三次の三男に生まれ(実兄は寺田屋事件で死亡した橋口伝蔵)、 覚之進と名づけられ育てられる。のちに同藩士、樺山四郎左衛門の養子となる。 薩英戦争・戊辰戦争、西南戦争、日清戦争、などに従軍。海軍大臣も勤めた人。
また、正子の父は、その長男として鹿児島に生まれた。1878年、米国に留学。 アマースト大学卒業後はドイツ・ボン大学に学ぶ。実業界に入り、函館どつくや日本製鋼所、十五銀行などの役員を務める。 1922年、父資紀(海軍大将、伯爵)の死後、爵位を襲爵した。樺山伯爵だ。
だから、正子は言わば薩摩人というしっかりしたバックボーン(背骨)を持った女性。 だから、やれ粋(いき)だ粋(すい)だという生っちょろい女性ではなかったことは想像に難くない。 次郎も大変だったことだろう。 でも、矢張り、業績で言えば次郎には適わない、と思う。
 
 
ペイジの運転席だ。
 
 
ペイジの隣にベンチがあり、中心に農家から切り出したような囲炉裏風の火鉢があった。鉄瓶が掛かり、炭火が埋けてある。
お湯、頂いちゃってよかったのだろうか?
その時は、気がつかなかったが、若しかしたら湯呑が置いてあったかも知れない。だとしたら、さり気なくだろう。 近くに香りは無かったから、中身は白湯(さゆ)に違いない。ほうじ茶なら呑みたいが、白湯なら要らない。
 
 
お金を払って屋敷内に入った。そぞろに歩むと小高い山道があった。
 
 
山道から谷底を歩く三人の仲間。坂井、桑原、末安の各君だ。
 
 
谷底から目を転じて空を見上げたら、青い空と紅葉が広がっていた。
 
 
記念館も見たが、撮影禁止なので、写真は無い。
武相荘最後の写真は入口で写した総勢8人の仲間たちだ。
 
 
2時間ほどで見終わり、プラプラ歩いて鶴川駅をめざした。昼食をとるレストランを探しながら歩いた。
5分ほどあるいたところ、この写真の「CoCo壱番屋」というカレーショップがあり、通りすがりに誰かが、「ここ美味いよ!」と言った。 小生、まさかとは思いながら「ご婦人方の意見を訊いいてみる」と言って訊いたところ、「いいわよ!」とのこと。 些か意外ではあった。
でも、入ってみたら、結構良かったです。 席を8つ揃えてくれたこと。 更に、カレーが美味かったこと。 それから、ビールを頼んだところ、出てきたのはキリンのラガービール350ml、グラス付きだ。 感心したのは、用意してあったビールの品揃えと温度。当にそのビールが一番美味い温度に設えてあった。 それから、グラスもビールと同じ温度に冷やし出てきた。 ま、普通、そうするだろうが、ビールとグラスの温度をきっちり揃えるまでするだろうか!?、とその気配りに感動した。
この店、結構皆さんの評判もよく、1時間ほどで外へ出た。 更に、プラプラ歩いて鶴川駅へと向かったが、駅まで、2〜3分のところまで来たところに、「ガスト」があった。 誰かが、「ここいいよ!コーヒーって書いてある」と言った。 小生、「スイートあるかな?」と言ったところ、「ある!ある!」との声。 それで、ここで、お茶することにした。
ここでは、コーヒー・バーのような一角があって、そこでは、珈琲、紅茶、ジュースなどいろんなドリンクが揃えてあり、200円ほど払うと、 お代わり自由とのこと。 また、スイートもあった。 8名、一箇所に固まって暫しの雑談を楽しんだ。
紅茶はアール・グレーとダージリンがティーバックでおいてあったが、美味くなかった。 それより、エスプレッソが美味かった。砂糖4袋入れたけど。スイートは駄目、論評外だ。
一段落して外へ出たところ、早時刻は3時半、坂井君とも別れて、皆、散っていった。 でも、楽しい時間でした。
皆さんに、また考えろ!と言われてしまったので、そのうち考えようと思う。 今、ぼんやり頭にあるのは、竹芝桟橋辺りから浅草辺りまで運行する定期船に乗ること。そして、下町などを歩いて老舗の洋食屋で食事し、 老舗のスイート店を見つけて一休みすること。餡蜜とかアイスクリームとか汁粉とか饅頭、食べてみたい。
 
 
 
 
最後に、白洲家の女婿の牧山圭男という方の書いた「義父 白洲次郎とポルシャ」という文章が額に入って展示されていたことに触れたい。
それによると、義父の車遍歴は、彼の中学時代に父に買ってもらった、アメ車のペイジ・グレンブルックに始まり、ベントレー、ブカッティー、 ランチャ、ハンバーホーク、ランドローバー、M・ベンツや、その間並行して必要に応じて三菱ジープ、豊田のピックアップトラック、スバルサンバー、 ソアラなどを経て、’68ポルシャ911のスポーツドライブで終わった。」とある。
今、永渕君がその中のベントレーの写真を投稿中。彼の場合、投稿は郵送なので少しだが時間がかかるのだ。 よって、それが着き次第、追記するのでご期待ください。
 
結局、武相荘を見学して得たものは何だろう?
色んなもの、民芸品的なものが展示されており、それはそれで素敵なものだが、武相荘に来て何を見つけたかったのか、となると、そのようなものではない。 我々は、多分、敗戦という未曾有の国難にめげず、戦勝国に対し堂々と国益を主張した人物としての白洲次郎の残香のようなものを見つけたかったのだと思う。 結果は、物としては彼が70年程も住み続けた家や屋敷くらいのものしか無かった。 だが、ソフトとしては、彼のような存在が国家にとって極めて重要、ということに気が付いたことだ。それが、得たものだろう。
例えば、山本五十六、彼は、新潟県出身で、苦学して連合艦隊司令長官にまでなった人物だが、対米開戦に加担し国家を敗戦へ導いた。
一方、白洲次郎は、「神戸一中を中退し、ケンブリッジ大学クレア・カレッジに聴講生として留学、西洋中世史、人類学などの授業を聴講したが、 近代経済学の祖ジョン・メイナード・ケインズの授業を受けたこともある。自動車に耽溺し、ブガッティやベントレー3リッターを乗り回していた。 7代目ストラフォード伯爵(英語版)ロバート・セシル・“ロビン”・ビングと終生の友となり、 1925年冬ベントレーを駆ってジブラルタルまでのヨーロッパ大陸旅行を実行している。カメラはライカを所有していた。」とあるように、 かなり裕福にして軟派だ。
言わば、この二人、一方は苦学し出世して国を誤らせたが、もう一方は、遊びほうけていたが国難に立ち向かって国益を護った。
諸君は、どちらの人物が偉いと思う? ・・・明らかに、白洲次郎の方だよね。 でも、これは、結果論。 阿久悠の歌詞ではないが、「青春時代が夢なんて後からほのぼの思うもの、青春時代の真ん中は道に迷っているばかり」なのだから、分かりゃしない。 ただ、言えることは、「苦学は個の善にして小謹に適う、遊学は苦学に反対し大事をなす」だな。 苦学は出世主義に、遊学は夢想主義に、繋がり易いから、ご用心。
山本五十六は、対米戦争に、戦闘機を1000機、陸上攻撃機を1000機、作って戦う積りだったようだが、 苦学した人は幼時の貧乏がたたって気宇が小さい。 実戦では零戦だけでも10000機作ったが負けてしまった。ナチスドイツだって、メッサーシュミット109という戦闘機だけでも40000機作った。 米軍は100000機のレベルだ。
苦学生に国を託すのは考えもの。それが、今回の獲物だ。端的に言えばそうなる。
 
 
 
 
 
 
 
 
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