島原温泉

石井俊雄
6月3日(月)、妹夫婦の助けを借りて墓参を済ませた後、1時ころ佐賀を出て島原温泉へと向かった。
カーナビに任せて行ったところ、大和インターから高速へとナビゲートされ、4時頃、島原へと着いた。 早速、島原城を見物したが、ここは、コンクリートの城で展示物は多かったが、それほど関心を引くものは無かった。 それで、ここは1時間ほどで切り上げ、近くにある観光スポット「武家屋敷」に向かった。
 
武家屋敷のメインストリート。 立看板には次の説明書きがあった。
島原城の西に続く一帯を、鉄砲町と呼びます。鉄砲町は島原城の築城とともに形成され、鉄砲町の名は鉄砲組(徒士)の住居地帯であったことと、 造成当時隣家との間に塀がなく、まるで鉄砲の筒の中を覗くように武家屋敷街が見通せたので、その名がつけられたと言われています。
7つの町筋は碁盤の目のようにできており、ここには扶持(ふち)取り70石以下の徒士(かち)屋敷が690戸ありました。
町筋の中央に流れる清水は、北西の「熊野神社」を水源とし、飲料水として使われ、水奉行を置き、厳重に管理されていました。
現在、保存されている下の丁の武家屋敷は、延長406.8メートル、幅長5.6メートルの町並みで、 山本邸、篠塚邸、鳥田邸の3軒が一般に無料開放され、当時の武家生活の様子が偲ばれます。 また、武家屋敷休憩所では白玉に独特の蜜をかけた郷土の味「寒ざらし」が楽しめます。
 
 
篠塚邸に入ってみた。
立看板には次の説明書きがあった。
この屋敷に住んでいた人は姓を篠塚と言い、代々順右衛門を称し祖先は三河(愛知県)深溝であるが、 寛文9(1669)年、松平主殿頭忠房が丹波福知山5万石から7万石島原城主として移されたときに従ってきて、 明治初期まで11代、8石から13石2人扶持を給され、主として郡方祐筆(書記)や代官などを勤めた。 屋敷坪数はその辺り全て3畝(90坪)である。
座して火鉢を囲っているが考えているのは「この家素敵だな!」ということ。 8石から13石2人扶持というと、1石1両として、1両20万円と仮定すると、大体、年収160万円から260万円程度の生活。 それに、2人の家僕を養う費用2人扶持も付いている。 決して楽な生活ではないだろうが、それでもこんな素敵な家に住めるなら悪くないというのが私の感想。 ・・・昔の人は豊かだったみたい。
 
篠塚邸の台所。簡素で清潔そう。素晴らしい。
竈も1つだから、家族だけのつましい生活だったと思われる。
 
篠塚邸の玄関(右)と勝手口(左)
簡素で凛とした緊張感がある。
アルミサッシではこうはいかない。
 
 
 
 
 
1日目はこうして終わった。
6時頃、「ホテル南風楼」に投宿。
ここは、温泉が「掛け流し」か否かを目安に選んだもの。
夕食は、イマイチだった。でも、朝食はバイキングでとてもよかった。 リピートしたいくらい。 何がいいかと言えば、食パンが秀逸。紅茶は色々あったがティーパックのやつで、色々試したがどれも駄目だった。 でも、ダージリンとジャスミンティーをがぶ飲みしたけどね。
ジャムもブルーベリーのやマーマレードもあったし、ミルクも、ヨーグルトも結構だった。 日頃は、食パン1枚とフランスパン1かけらだが、ここでは、食欲が出て、食パンを2枚半食べた。 鶏はつられ食いすると言うが、小生もそうだったようだ。
家内が驚いていた。自分に比べればいいのに、いつもの私に比べるからだろう。
 
 
 
 
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  • アップデート:25/6/8    [Return]