|
武家屋敷のメインストリート。
立看板には次の説明書きがあった。
島原城の西に続く一帯を、鉄砲町と呼びます。鉄砲町は島原城の築城とともに形成され、鉄砲町の名は鉄砲組(徒士)の住居地帯であったことと、
造成当時隣家との間に塀がなく、まるで鉄砲の筒の中を覗くように武家屋敷街が見通せたので、その名がつけられたと言われています。
7つの町筋は碁盤の目のようにできており、ここには扶持(ふち)取り70石以下の徒士(かち)屋敷が690戸ありました。
町筋の中央に流れる清水は、北西の「熊野神社」を水源とし、飲料水として使われ、水奉行を置き、厳重に管理されていました。
現在、保存されている下の丁の武家屋敷は、延長406.8メートル、幅長5.6メートルの町並みで、
山本邸、篠塚邸、鳥田邸の3軒が一般に無料開放され、当時の武家生活の様子が偲ばれます。
また、武家屋敷休憩所では白玉に独特の蜜をかけた郷土の味「寒ざらし」が楽しめます。
|
| ||||||
篠塚邸に入ってみた。
立看板には次の説明書きがあった。
この屋敷に住んでいた人は姓を篠塚と言い、代々順右衛門を称し祖先は三河(愛知県)深溝であるが、
寛文9(1669)年、松平主殿頭忠房が丹波福知山5万石から7万石島原城主として移されたときに従ってきて、
明治初期まで11代、8石から13石2人扶持を給され、主として郡方祐筆(書記)や代官などを勤めた。
屋敷坪数はその辺り全て3畝(90坪)である。
座して火鉢を囲っているが考えているのは「この家素敵だな!」ということ。
8石から13石2人扶持というと、1石1両として、1両20万円と仮定すると、大体、年収160万円から260万円程度の生活。
それに、2人の家僕を養う費用2人扶持も付いている。
決して楽な生活ではないだろうが、それでもこんな素敵な家に住めるなら悪くないというのが私の感想。
・・・昔の人は豊かだったみたい。
|