我が家は角地にあるので、道行く人の視線に270度ほど、曝されている。
だから、ヨシズで目隠しをしている。
このヨシズ、夏の陽射しを遮ってくれるので、その役目もありがたい。
今や、生活に欠かせないもの、それが左端に写っているヨシズだ。
ヨシズは人工物だから、1年に1回、取り替えてやらないといけないが、牡丹は自然物、
だから、黙っていても自分で咲いてくれる。自立・自生の生き物だ。
だから、一輪でも切るのは、忍びない。
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牡丹といえば、先のメールで話したが、「弁天小僧菊之助」という流行歌を思い出す。
この歌は、昭和30年、歌:三浦洸一 作詞:佐伯孝夫 作曲:吉田正 で発売されたもの。
ここをクリックしてくれ給え。
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この歌の「牡丹の様なお嬢さん」で始まる歌詞、何の気なしに聴いているが、調べてみたら、
結構深い由緒があった。
それは、今から1200年ほど前の漢詩に端を発していた。
賞牡丹(牡丹を賞す:劉禹錫)
詩に云う。庭に咲く芍薬の花は、妖艶すぎて品格がなく、池に咲く蓮の花は、
清らかすぎて色気に欠ける。
ただ牡丹のみは、まことに天下一の美女ともいうべき美しさだ。
その花が咲く時節には、長安の都じゅうが大騒ぎになるのだから。
作者は中唐の詩人、劉禹錫(りゅう うしゃく、772〜842)。
李白・杜甫に代表される盛唐のころ、すでに長安をはじめとする都会の富豪の間では、牡丹ブームにわいていた。
庶民ももちろん牡丹を好んだが、良い牡丹を手に入れるため千金も惜しまない金持ちたちの熱狂は異常なほどで、
もはや花への愛好ではなく、病癖とも言える執着ぶりであった。
あるいは趣味の域を超えて、利殖の対象にもなっていたのであろう。
劉禹錫の友人である白居易は、
一株の牡丹の値が中流階級の家10軒分の租税に相当するという当時の世相をテーマに、
「買花」という社会風刺詩を残している。
買花(白居易)
「傾国」という言葉がある。国を傾けるほどの絶世の美女という意味で、「国色」と同系列の詩語といってよい。
直接的には、盛唐のころに玄宗皇帝の寵愛を一身に受けた楊貴妃を指すが、それが原因で天下大乱を招いたことも人々の記憶に生々しい。
盛唐(唐は初唐、盛唐、中唐、晩唐、に区分される)の詩人李白に次の漢詩がある。
清平調詩三(李白)
その楊貴妃の美しさを、李白は牡丹にたとえて詠んだ。
以来、牡丹のもつイメージが、中国文学史のなかでほぼ定着した。
つまり「京城を動かす」は、あながち誇張表現ではないのである。
以上から、要するに、牡丹とは傾国の美女の喩なのだ。
単に、作詞家佐伯孝夫の思いつきではない。
だから、「牡丹のようなお嬢さん」とは美女への最大の賛辞と解される。
流行歌って、結構、中華文明的だよね。
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一夜明けた今朝、新しい写真を撮ったので、追加する。
別の株の牡丹だ。色が薄いピンクなので、別株だと分かる。
株も小さいし、花の数も少ないが、綺麗なのは同じだね。
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一夜明けた今朝、新しい写真を撮ったので、追加する。
元の株の牡丹だ。
一夜明けただけなのに、昨日より、艶やかな感じがした。
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掲載し始めて三日目の朝、近所の家の藤の花だ。こちらは白、思わず、撮った。
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同じく三日目の朝の近所の家の藤の花だ。こちらはよく見かける藤色の花だ。
この藤は、去年も見たが、綺麗なのだよね。
それで、憶えているが、去年見たのがついこの間のような気がする。
もう咲いたかと思うとき、一年の時の流れ、その速さに驚いた。
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我が家の三日目のだ。ピンクのも全部が咲いた。
なべて世は当に花の世界。素晴らしい季節です。
それを映した音楽で終わりにします。
でも、ちょっと書くと、この フラウエンコーア、ハーモニーが素晴らしい。それに、伴奏のピアノも素晴らしい。
タッチが柔らかいというか、他のも聴いたが素敵だった。特にそう思ったのは、「浜辺の歌」だ。
そのピアニストは、漆間有紀さん。素晴らしい。
浜辺の歌って、歌詞もメロディもいい。
特に、歌詞でいいのは、夕べ浜辺をもとおれば、昔の人ぞ偲ばるる、というところ。
思えば、我々、多くの人と別れて来たものだ。
それが、この歌を聴いていると、胸を締め付ける。
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