しょうぶ公園の睡蓮

石井俊雄
家の近くに、「吹上しょうぶ公園」という公園がある。
毎年、この頃になると、花しょうぶを咲かせ、展示し見せている。 今年も、6月1日から、開園しているので、覗いてみた。
そのときの写真、よかったら観てください。
 
  
公園のしょうぶはまだ咲いてない。
入り口で訊いたが、入場料は取らないそうだ。何故なら、咲いてないから。 確かに、咲いてない。写真を見れば一目瞭然だ。
 
 
公園の入り口を入ってすぐある池の睡蓮だ。
こちらは、手入れするでもなく、綺麗に咲いている。素晴らしい。
 
  
イモカタバミ (芋片喰)の花だ。池の辺で咲いている。
今、一般の道路でも路傍にたくさん咲いている。
 
  
睡蓮だ。赤いのは、手前で揺れているイモカタバミの花。
 
  
同じく、紅い睡蓮。イモカタバミの花も入った。
「紅い睡蓮」といえば、昔、同名の流行歌があった。 それを思いだすよね。聴いてみよう
作詞 西條八十、作曲 古賀政男で、昭和14年(1939年)9月に、李香蘭の歌でレコード発売された。 いい曲だ。ネットで調べると、次のようなことが書かれていた。
「紅い睡蓮」は、李香蘭が出したレコードとしては、初のヒットとなった曲である。 映画「白蘭の歌」での「いとしあの星」、映画「支那の夜」での「蘇州夜曲」等劇中歌は人気を集めたが、 作曲者がコロムビア所属という事もあって、当時テイチクに所属していた李香蘭は レコードに吹き込むことが出来なかった。 上記の曲は『チャイナソングの女王』こと渡辺はま子によってレコード発売されていたが、昭和15年李香蘭が コロムビアに移籍したことにより、彼女は晴れて主演作のレコードを吹き込むことが出来るようになった。
西條八十歌詞が完成させたのは、昭和15年8月8日。 その後古賀政男による作曲が行われたが、彼が参考にしたのは、昭和10年中国に旅行した時に訪れた、 西湖のイメージだった。
この曲は、東宝映画「熱砂の誓い」の主題歌だ。もう一つの主題歌が、「建設の歌」。 これも有名。伊藤久雄でお馴染みだよね。
こんな歌を聴いていると、昔のことが思い出される。 「浜辺の歌」の歌詞ではないが、「むかしのことぞしのばるる」だ。
その中でも、子供の頃のことが、懐かしい。 その頃は、いなくなってしまうなんて思ってもみなかった祖母、母、叔父叔母、が皆、元気だった。 負けるなんて思ってもみなかった兵隊さんや軍艦や飛行機もあった。 何より、皆が元気で明るかった。 それが、今、殆ど全滅だ。
静御前の詠んだ和歌が思い出される。
しづやしづ賤のをだまき繰り返し 昔を今になすよしもがな
人生の悲哀って、そんなことかも知れない。 自然のルールの前に人は無力、いかんともし難い。精精、懐かしく思い出すだけだ。
小生が懐メロ好きなのも、根はそんなとこだろう。
浜辺の歌、聴いてみよう。
・・・寄せる波よ、返す波よ・・・か、我々は、寄せる波だったこともあった。 ・・・もう、返す波になったけど。
そんな思いからか、ふるさとへ帰る、というソングもある。 ドリス・デイの「センチメンタルジャーニー」だ。 ネットで調べると、次のように書かれている。
ドリス・デイ(Doris Day、1922年4月3日生まれ)は、 1944年に18歳から専属歌手であったレス・ブラウン楽団の「センチメンタルジャーニー」 を歌って大ヒットさせました。 バンドのリーダーのレス・ブラウンが作曲したこの歌は、 ニューヨークのホテル・ペンシルバニアのカフェルージュで演奏され、 当時の子供たちの熱狂的な人気から火がついて、全米ヒット1位となりました。
「センチメンタルジャーニー」は、長い放浪の後で、わが家に帰るという内容で、 けして成功して戻るのではないことは、「Spent each dime I could afford. 」(小銭をかき集め)の意味で分ります。 センチメンタルと言っても、・・・この歌のセンチメンタルは、人生に関する感傷です。
とある。
戦後、我々が餓鬼のころ、日本でも流行っていた。 意味は全然分からなかったが、今や、少しは分かるようだ。 歌詞の邦訳も書いておこう。 何れも、ネットからの引用だ。
ドリス・デイについて一言。 彼女、特に声がいいわけでもないし、歌唱力だって、飛びぬけているとは思わない。 容姿だって、そんな特別な、とも思えない。 なのに、何故、こんな大女優にして大歌手になれたのだろう。 私には分からないが、多分、大衆が求めたキャラにがっちり嵌ったのだろう。 そして生き方も。 今でも、ご健在のよし、ご成功おめでとうと言わせてもらいます。
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