鴨と別れて1時間ほど経った井の頭池は、青嵐の中、低い雲の下で、いつものように、静かに時を刻んでいた。
この死んだような鈍重な世界でも、幾多の生のバトルが、絶えることなく続けられていると思うと、
不思議な気がする。鴨の親子に情けをかけたことにどれ程の意味があったのだろう。
ほんの少しだけ命を伸ばしただけかも知れないし、或いは、自己満足が精々かも。
偶然の所産として、あるものは生き、あるものは死ぬ。それだけのような気もする。
でも、あの場面に出くわしたらまたお節介をやくだろう。・・・それでいいのではないかな。
・・・仮令、自己満足の薄情けでも。
そう言えば、昔、「裏町人生」という流行歌があった。
作詞嶋田磬也、歌詞は、
「暗い浮世のこの裏町を 覗く冷たいこぼれ陽よ なまじかけるな薄情け・・・」
と歌うのだ。聴いてみますか、「裏町人生」を。
歌手の結城道子というひと、素晴らしい。
上原敏も素敵だが、負けてない。
二人とも音がぴったしだ。
結城道子ってひと、群馬県前橋市出身、東京高等音楽学院卒、昭和8年、ポリドールレコードからデビュー。
この「裏町人生」が大ヒットしたそうだ。
結城道子の歌、癖がなく素直でしかも情感たっぷりな歌唱力、素晴らしい。
これだけ歌えて私が知らなかったというのが不思議。
上手いというより天性の素質を感じる。
でも、ネットでは没年は不明と書いてあった。
これだけの素材が埋もれてしまったようだ。
それにしても、昔の曲には品がある。歌手には知性を感じる。
コマーシャリズムで押し付けがましい今の曲よりよっぽどいいと思う。
最後に、作詞の嶋田磬也(しまだ きんや)について書いておこう。出身は、熊本県熊本市、
1909年6月30日 - 1978年11月20日だ。
面白いのは、作曲家・大久保徳二郎、歌手・ディック・ミネとのトリオは、
ヒット・メイキング・チームであったということ。
「或る雨の午後」、「長崎エレジー」、「夜霧のブルース」など、我々も知ってる曲を書いている。
「上海ブルース」もかと思ったが、
これは、北村雄三作詞とあった。でも、これは嶋田磬也(きんや)の別名。
だから、これも彼の功績だ。
この4曲、歌詞、曲、とも似ている。歌手が4つとも、ディック・ミネだというだけではないのは、
作詞、作曲も同じだから当然だろう。
ちなみに、小生の好みから言えば、
「上海ブルース」が一番だ。
この曲、昭和13年発売。古き良き時代を映しているのかも知れない。
それにしても、作曲家・大久保徳二郎の曲、凄くバター臭い。調べたら、ジャズバンドのサックス奏者から転向したそうだ。
生年も嶋田磬也とほぼ同じ1908年。出身は東京は墨田区本所、本所松坂町(吉良上野介の屋敷があった)の本所だ。
ジャズバンドのサックス奏者から作曲に転向して大きな功績を残したもう一人の作曲家が服部良一だ。
彼の生まれは1907年、出身は大阪だ。
彼にはクラシックの素養もあったが、東京に出て1938年、「別れのブルース」を書いて大ヒットとなり、
一流の作曲家の仲間入りを果たした。
「別れのブルース」と言えば、一昨年亡くなられた桝山了チャンが思いだされる。
彼女の「別れのブルース」、とても素敵だった。久しぶりに聴いてみよう。
了チャンってとてもうまい。音が合ってる。それに声がいい。
この曲は渋谷のカラオケ店でデジカメで録画したものだが、この曲、お母上が好きだったと言って歌ってくれたものだ。
後にも先にもこのときだけだった、カラオケで歌ってくれたのは。
そのときは、また歌ってもらおうくらいに考えていたが、亡くなられるとはね、思いもよらないことだった。
聴けば聴くほど惜しまれる。
素人がこんなこと言っては笑われるかもしれないが、これだけ歌えれば、
飯喰えたのではないだろうか、淡谷のり子のようにブルースの世界で。
人って生きてる間はその人の有り難味がピンときてないよね。
亡くなられて、段々失ったものの大きさが分かるような気がする。
服部良一も相当バター臭い。でも大久保には敵わないかも知れない。
ちなみに古賀政男、彼はいい曲書いているが、バター臭くはない。
古賀政男には、ジャズの経験がない所為だろう。
このように、ジャズの経験を通して書かれた名曲が、この時期生まれたことは、音楽史上の快挙ではないだろうか。
ちなみに、クラシック界では、いい曲は書かれていない。
明治の文明開化から150年ほどになるが、未達である。
武満徹が何か書いてるようだが、印象から言えば、彼は映画音楽家だろう。
クラシック音楽は教会音楽をベースにして発展したものだからやむを得ないことである。
仏教や神学界は音楽を重視しなかったからである。
和音すら知らなかったのだから、維新から150年では短すぎる、ということだ。
でも、感性は有ることが、流行歌界の数人の作曲家によって証明されているのだから、時間の問題だろう。
小生が生きている内は望めそうにないのが残念だけど。
明治の文明開化から150年ほどの間には、特筆するようなクラシック曲は書かれなかったが、
江戸時代には、いい曲が書かれている。箏曲「六段」だ。17世紀に八橋検校によって書かれている。
この曲、小生に言わせれば「琴ソナタ」だ。ピアノソナタのように聴こえるから。
聴いてみますか。
単音と単音の間の響きの良し悪しはある程度意識されているだろうが、それが「和音」という概念には至っていない。
でも、いい曲だよね。
増渕陽子さんの演奏、初め1分ほどの間は、少しぎこちない。段々調子が出てきて中頃からは快調に演奏されている。
その演奏、素晴らしいと思う。
でも、良く聴くと、調弦が少し甘い。低い方に32分の1音ほどズレている。
だから、高音が出切っていない。この高音が出切らないと、聴く方は欲求不満になる。
だから嫌だね。「も少し!」と叫びたくなるのだ。
・・・私の歳の所為だろうか、そう聴こえるのは。
琴って、単音の楽器だよね。そう言う意味ではバイオリンと一緒。
でも、バイオリンの演奏形式は極めて多様なものがある。
だから、琴の世界、もっと広がる可能性を秘めてると思う。
大体、左手が殆ど使われていないことは、問題だ。
もう一本、別の弦を操るくらいのこと、考えてもいいのではないだろうか。
でも、それは、多重音の世界への憧憬が前提だ。
それが、日本人の好みに合致するかどうか、相当疑問がある。
多分、日本人は、単音指向ではないかな?・・・そんな気がする。
江戸期って探せばもっといい曲あるかも知れない。知らないだけかも。
古賀政男は1904年生まれ、大久保徳二郎は1908年、服部良一は1907年、嶋田磬也は1909年。
他にもいい曲書いた作曲家や作詞家は多いが、この4人が1904〜1909年に集中して生を受けたこと、
この事実は面白い。
何故なら、いい曲が生まれる要因は、時代背景などの外的なものにあるのか、
それとも、特別な才能を持った人が偶然集中してこの時期に生を受けたことにあるのか、
研究すれば分かるかも知れないからだ。
意外と、外的要因が主犯かも知れない。・・・となると、皆にチャンスがあるわけだ。
孫に期待しようかな?!
少し書き足そう。
武満徹は、終戦間際の1945年、上官が隠れて聴いていたリュシエンヌ・ボワイエが歌うシャンソン
『聴かせてよ、愛のことばを』( Parlez-moi d'amour )を耳にして衝撃を受けたそうだ。
・・・この話から彼の感性が本物だったことが分かるというもの。
・・・聴いてみよう、
あなたも納得するだろうから。(最初だけコマーシャルが入る場合があるので我慢するかスキップしてね。)
リュシエンヌ・ボワイエの声、無垢で澄んでてまるで天使のようだね。
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