h28墓参り

H28/6/12
石井俊雄
毎年のことながら、年に一回は墓に参るのを心に決めておりますので、今年も墓参に行ってきました。
その時撮った写真です。よかったらご覧ください。
9時45分羽田発佐賀空港行きに乗りました。
写ってる海は相模湾。その海岸端に鎌倉(中央より少し左の弓なりの海岸のところ)、少し右手に江の島が見えてます。 上部の陸地は三浦半島です。
撮影は機内の主翼上の席からです。写っている機体は左翼とメインエンジンです。(撮影時刻 2016/06/10 10:17:38)
 
写ってる海は伊勢湾。飛び出た島は中部国際空港です。左の陸地は知多半島。右上部の陸地は志摩半島です。 (撮影時刻 2016/06/10 10:38:46)
11:30分、予定とおり佐賀空港に着きました。 この日は、先ず、墓掃除をして、本庄うなぎで昼食をとり、 その後は、八期生で従兄弟の不破正典の家を弔問しました。 まだそこいら辺から現れるような気がしましたが、現れませんでした。 彼がいれば、愛敬町の「ぷよぷよ」でカラオケでもしたことでしょう、・・・残念でした。
この日は佐賀駅前の東横インに泊まりました。 2流のビジネスホテルですが、快適でしたよ。
ビジネスホテルと言えば、舛添さんは、「トップが2流のビジネスホテルに泊まれますか、恰好悪いでしょう!」と、 さも自明なことのようにうそぶいた。だが、人の金で高級ホテルに泊まる方がよっぽど恰好悪い。
また、聞くところによると、彼は東大法科卒だそうだ。 であれば、法体系の基本ロジックを理解しているはず。 なのに何故、「厳しい第三者」、これを自ら選定しておいて、第三者としての厳正さが担保出来ると思ったのだろう。 ・・・出来ないのは素人でも分かることなのに、未熟過ぎる。
これ等の例からも分かるように彼の釈明は悉く常識からずれていた。 ・・・そんな人が短期間とはいえ、都知事になるという怪事、恐ろしい。現代版ホラー(怪談)だ。
翌朝、朝食時、遠目ながら八期会の友人に似た女性を見かけたので、
「似ておられるので・・・」
と声をお掛けしたところ、矢張りご本人でした。
暫し立ち話などした別れ際、
「美人でよかったでしょう!」
と一発パンチをもらい、ユーモアたっぷりの別れとなりました。
「気をつけるんだよ!」
とアドバイスすべきだったかも。
常照院(佐賀市本庄町鹿子)のお墓にて写しました。
妹と家内と甥と長男です。 背景の楠の大木が佐賀らしさを映しています。
常照院の前身は、「飯盛城」という城でした。 我が家のルーツは藤原氏で、京より建長2年(1250年)下総国猿島郡石井郷(茨城県坂東市岩井) に下向し石井氏を名乗りました。 七代後、石井忠国は千葉氏の内紛に巻き込まれ、肥前国小城郡晴気城主千葉胤紹の下に身を寄せ、肥前国佐嘉郡与賀郷飯盛村を知行地として与えられたそうです。 永享元年(1429年)菩提寺「本善寺」を創建し、元和元年(1615年)常照院と改め現在に至っています。
・・・武士どもが夢の跡です。
我が家には、「藤原姓石井氏系図」と題する系図が伝わっています。 初代は、石井伊予守忠倍二男石井平左衛門忠教とあります。享年は不明だけど、その長子たる氏忠は、 「天正十年十二月三日従軍於筑後戸原戦死ス二十五歳法諡云々」とあります。 ここで「法諡(ほうし)」は、贈名(おくりな)、所謂戒名のことです。「云々」のところに具体的な戒名がきます。
天正十年は西暦1582年だから、 その父である平左衛門忠教は、西暦1500年代半ばを生きた戦国武将だったと思われます。 知行は石井平左衛門家として375石とあります(「肥前石井氏」というネット情報より)から、中級の武家ということでしょう。 余談ながら、従兄弟にして八期生の不破家は、福岡の黒田藩の家老だったという家柄。石高は聞きそこないました。 でも、375石ってことはないでしょう。負けてるみたいです。我が方が。
不破の名前が出たので、少し書き足しましょう。
「不破氏」をネットで調べると、「百済系帰化人多利須々の後胤で、 現・岐阜県不破郡垂井町宮代、現・不破郡関ケ原町野上、に生まれた宮勝木実(みやの すぐりの このみ)が、 壬申の乱の功によって、不破郡を賜り、不破と改姓したとされる」 とある。
また、「黒田孝高」(黒田 官兵衛、または、黒田如水のこと)をネットで調べると、 「黒田氏は、『寛永諸家系図伝』などによれば、賤ヶ岳山麓の近江国伊香郡黒田村(現在の滋賀県長浜市木之本町黒田) の出身とされるが、定かではない。」 とある。
以上のネット情報から、不破家と黒田家の関わりについて推量すると、次の可能性が見えてくる。
不破家の発祥の地である岐阜県関ケ原と黒田家の在所である滋賀県長浜市は、 地図上の直線距離で凡そ20kmほどの距離にあることから、当時(戦国期以前)から地縁人縁の関係にあった。
このことから、いつのころからか黒田家に臣従し、福岡藩52万石創生への貢献が認められ、福岡藩家老職に列した。
正典君が生きていれば、もう少し聴けたかもしれないが、彼の寡黙な性格から推して、おそらく多弁しなかっただろう。 小生も、生前、このネット情報を掴んでいれば、寡黙な口をこじ開け得たかも知れない。・・・残念である。
だけど、ただ一度だけ、平成15年、私の母が亡くなったのを機に、小生が我が家の家系を知ろうと調査を始めた折、 正典にその話をしたら、彼も、自分の家系を調査するつもりだと話し、なんでも、直ぐにでも 関ケ原に行ってみるようなことを言っておった。 数年後、東京で会った際、あれはどうなった?と訊いたが捗々しい結果は聞けなかった。 だが、彼が、自分のルーツについて、岐阜県不破郡の関ケ原辺りを意識していたことは確実である。
不破家と岐阜県不破郡の関わり、間違いなく繋がっていると思う。 そこには今でも不破関 という史跡もあることだから。
話を本題に戻そう。今、墓石の周りは砂地ですが、夏ともなると草が生えて大変なので、 草が生えないように玉砂利を敷くとかコンクリーをかぶせるかとか、対策しようかと検討をはじめました。
私の祖母が生前、「墓をコンクリートで固めると中に入ってる人が息ができないからしない!」と言ってたので、 なんとか上手い方法はないかと知恵絞ってます。
私の願いは、この墓が未来永劫、この父祖の地で維持されること。 ・・・その内、AIが代参、ということになるかも知れないが、そんなのは構わない。 でも、無縁墓になることだけは勘弁願いたい。 (撮影時刻 2016/06/11 11:07:16)
昼食は片田江通りにある「春駒」でとりましたが、その脇にあるクリークの魚影です。 昔、魚を追っていたのが懐かしい。佐賀は今も水清き故郷です。(撮影時刻 2016/06/11 11:28:09)
「春駒」です。昔の籾井塾の並びにあります。名物は「皿うどん」です。(撮影時刻 2016/06/11 11:28:52)
「皿うどん」の姿です。和風の味付けは昔と変わっていません。それがいい。
従兄弟にして八期生の不破正典は、この近くの柳町に住んでいました。彼もここの「皿うどん」は好きでした。
妹は、カレーうどんをとってました。 ごはんもとってそれをカレーうどんの中に入れて食べるのがいいとか言ってたけど、私に言わせれば邪道。 どうも兄弟でも好みは違うようです。 でも、一人前近くちゃんと食べておったから、よかったです。・・・昔から食の細い奴でしたから。 (撮影時刻 2016/06/11 11:47:17)
帰りは、佐賀空港15:45発、羽田行きです。 雲が多かったけど、着陸態勢に入った辺りから地表が見えるようになりました。
写っているのは東京湾湾口。左の陸地が三浦半島、右の陸地は房総半島です。 右下のでっぱりの付け根にある町が館山、先端にあるのが洲崎灯台です。 撮影は、房総半島の最南端の上空からです。高度は不明だが山勘で2000mほどか。 撮影は機内の最後尾の席からです。
こうやって見ると、地表の姿って地図通りだということが、分かります。 頭の中では分かっていても、それは頭で理解しているだけで、実感とは程遠いものです。 だけど、飛行機から見ると、それが地図通りだということが実感できて、不思議な気がしました。
我々の実感では、地表を写した地図が身近な存在ですが、実際に飛行機から地表という実体を見ると、 写しと実体が逆転して、実体である地表が、写し通り再現されているような錯覚に陥りました。 人間の認識能力なんて案外頼りないものかも知れません。
このか細いものを頼りに78年やってきたかと思うとぞーっとしないでもないが、 まだまだそれに頼って頑張ります。・・・取り替え利かないし・・・。 (撮影時刻 2016/06/11 17:05:00)
眼下に見えるのは千葉港です。飛行機(A320)はここから左旋回して羽田空港へ進入して行きました。
なお、対岸のでっぱり(画面に向かって右端から横幅の3分の1ほどにある)は浦安のディズニーランドだと思われます。 更に右端より5分の4ほど進んだところに、羽田空港が見えています。 (撮影時刻 2016/06/11 17:16:37)
定刻とおり夕日に染まる羽田空港に到着しました。 長男、家内も同乗していたので、正直、ほっとしました。(撮影時刻 2016/06/11 17:31:06)
来年を待たず、もう数回は佐賀に行かないといけません。 お袋の残したものの整理が残ってますから。 その時は、日帰りにするつもり。泊まると、荷物が増えて大変だから。 さっと行って、さっと帰る、をモットーに荷物整理と防草対策、済ませるつもり。
私も身辺整理のコースに突入したようです。
あらざらむ この世のほかの お土産に
あと幾たびか 故郷(くに)へかへらむ
です。これ、和泉式部のパクリ。
「あらざらむ この世のほか」というのは、所謂「あの世」のこと。 本歌は恋歌だけど、旅歌に借用しました。
少し加筆します。
それは、お袋の荷物整理をしていたら、古いSPレコードが出てきたこと。
相当使い込んであったので、ラベルを見ても中々判読できないのが多かった。 荷物整理の急がれる中で、何とか判読できたのの中に、「誰か故郷を想わざる」のラベルがあった。 大型盤で「ボレロ」も。 それから、アルバムになったもので、ベートーベンの第五があった。 それに、"History Of Jazz"というアルバムも。
昔のSPは重いから、置いてきたが、持って来ればよかった、と思っている。 判読不能でも聴けば分かるからだ。 次は、少し時間かけ選別して持ち帰ろうと思っている。 中でも、「セントルイス・ブルース」があれば嬉しい。あれば当時流行していたバージョンのはずだからだ。
そんなわけだから、ラベルが確認できた曲、 「誰か故郷を想わざる」にリンクを張っておこう。 この曲は、戦時中でもガンガン聴けたものだが、私はそれほど好きな曲ではなかった。 だが、それしか判読できなかったのだから、仕方がない。(2016/6/17 追記)
当時、戦中戦後まもない頃だが、私が好きだった曲は、ラベルの「ボレロ」、灰田勝彦の「新雪」、「きらめく星座」、 曲名が分からないヨーデルの曲、高峰三枝子の「湖畔の宿」、「純情二重奏」、「懐かしのブルース」、 淡谷のり子の「別れのブルース」、「雨のブルース」、「人の気も知らないで」、伊藤久男の「暁に祈る」、「高原の旅愁」、 三条町子の「かりそめの恋」、菊池章子の「湖畔の乙女」、楽団が分からないが「セントルイス・ブルース」、 松平晃の「花言葉の唄」、渡辺はま子の「蘇州夜曲」、藤山一郎の「春よいづこ」、平野愛子の「港が見える丘」・・・ それに「コンパルシータ」などタンゴの数々。それから、忘れるとこだったが、ディック・ミネの「黒い瞳」、 「上海ブルース」、「奥様お手をどうぞ」などなど・・・だ。
その中から、「マリネラ」を聴いてみよう。私がその頃聴いたものではないが、 ティノ・ロッシ ので行ってみよう。 「マリネラ」とは、女性の名前かと思ったが、どうやら南米チリの踊りの一種らしい。 だから、タンゴではない。
ティノ・ロッシと言えば有名なのは「 小雨降る径」だろう。ついでに聴いてみよう。 (2016/6/18 追記)
ティノ・ロッシを聴いていたら、ルシエンヌ・ボワイエのシャソンを発見した。 "Lucienne Boyer - Mon coeur est un violon, 1945" だ。 「 私の心はヴァイオリン」という邦題だったと思う。 彼女は、ご存知、"Parlez-Moi D'Amour"(聞かせてよ 愛の言葉を)で一世を風靡した歌手だ。 この曲が作られたのは1930年で、ヴァイオリンの方は15年後の1945年。 相変わらず、素晴らしい。 (2016/6/22 追記)
コメントはこちらへメールして下さい。その際、文中冒頭に「HPコメント」と記して下さい。 Email

<コメント欄>   当欄は上記のメールをコメントとして掲示するものです。