子連れ鴨

石井俊雄
先日、17日(月)だが、自宅近くを流れる霞川の側道を歩いていたら、子連れの鴨に出会った。 鴨は小鴨を守るように辺りを窺いながら川上へと泳いでいく。
その時、「この鴨は数日前見かけた5羽の小鴨を連れた夫婦鴨と同じ鴨だろうか?」との疑問が頭を擡げた。
若し、そうだとしたら自然界の情け容赦のない厳しさが目の前にあると思わざるを得ない。 でも、別の鴨かもしれないと思うと少し気が楽になる。
だが、今の時期、大概の鴨は既に北に渡ったはずだから、ここいら辺で居残ってる鴨はそんなに多くはないはず。 となると、矢張り、あの大家族の鴨一家なのかも知れない。
そう言えば、10日ほど前、この川を1間近い大きな青大将が泳いでいるのを目撃したことが頭を過ぎる。 写真でも写っている草むらに消えていったが。 若し、この鴨があの鴨の生き残りだとしたら、このように川ふちを泳ぐ小鴨を草むらに隠れて待ち伏せて襲ったに違いないと、襲撃の仕方まで頭を過ぎる。
できれば、別の鴨であって欲しい。
そんな煩悶を抱えながら、丁度、小さなデジカメを持っていたのでその姿を写真に撮りました。良かったらご覧下さい。
 
初めはもう少し川の真ん中を泳いでいたのですが、私を警戒したのか、向こう岸に寄って子鴨を隠すかのような感じでした。
 
 
でも、小鴨が手前に出てきます。
 
 
でも、やっぱり、親は小鴨を遠ざけました。
私に向かって、「しっ!しっ! あっちへ行きなよ!」と言ってるみたい。
私を盗賊鴎の類と思っているのかも。
失礼しちゃうよね!
でも、健気な奴だ。
 
 
 
 
 
以上3枚の写真は、12秒間の出来事です。あっと言う間に遠ざかっていきました。
小生も、急いでいたので、おさらばしましたが、本音を言えばもう少し狙って撮りたい。 出来れば、真横から親が先行って小鴨が10cmほど後を追うというのがいい。
10cmというのは、親子の連帯を語るに相応しい数だと思う。これが30cmもあると親の薄情が表に出てきて、ドメスティックバイオレンス的だ。
また、これより小さいと、親が急ブレーキを掛けたとき、追突は避けられそうにない。道交法違反的だ。写真としてはコンプライアンスは外せない。
そんなわけで、10cmいいとこではないだろうか。
この親子、元気にやっていって欲しいものだ。 恐らく、片方の親と数羽の兄弟は、もういないがそう願っていることだろう。
この親子にピッタシ音楽はないか考えてみた。 だが、中々思い浮かばないで一晩すごした。
でも、翌朝、愛燦燦でもいいかなと思いついたのだ。
ちょっと違うかな?と思わないではないが「愛」というテーマならいいだろうと思って貼り付けてみた。 なぜなら、この親子には愛が燦燦と降り注いでいるようだから。
小椋佳、石川さゆり、加山雄三のを聞き比べたが、加山雄三のを貼り付けることにした。 力強いからだ。「・・・人生とは悲しいものだ」と歌うにはしおらしく歌われては適わない。力強さこそ相応しいと思う。 初めの数小節はイマイチだが、・・・仕方ない。(この段追加:6/22朝)
 
 
 
後日談になるが、あれから20日ほど経った今日(7月7日)、以前に撮影したところの直ぐ側でこの鴨の親子に出会った。 元気そうに川の浅瀬のところで休んでいた。 写真機を持っていなかったが、慌てて家まで戻り撮影したのがこの写真だ。生き延びていたのでホットしたというのが本音だ。(この段追加:7/7昼頃)
小鴨の可愛さ、親鳥の健気さ、・・・頑張れ!
 
 
 
 
 
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コメント
桑原峰征
親子連れの鴨の写真、自然の中のちょっとしたスナップは和みます。
ところで、この親子は渡りの鴨なのか、留鳥のかるがもなのか分かりませんが、丁度30年前に私が広報を担当していた時期に、 会社の池にカルガモ親子が住みついたことがあります。その後数年間かるがも親子の皇居のお濠への引っ越し騒ぎがブームを呼び、 管理担当の女子職員が連日マスコミに登場。カルガモもさることながら、テレビに登場するたびに、カメラ映りが良くなり、 雛の成長とともに磨かれていく様は新鮮な驚きでした。人も切っ掛けさえあれば、どんな時も成長するものだとあらためて思い知らされた次第。 私自身、その後の羅病の度に成長しているのではないかと、慰めの材料にしています。
先日、数年ぶりに会社の池にカルガモの雛が誕生し、カルガモ親子の皇居の池への引っ越し報道があり懐かしく思いました。
(2013/06/22 14:08)
 
 
時間と性を超えた人間の普遍性
石井俊雄
桑原君の経験された女子職員の演じた驚きの変身、この話を聞き、似たような話を漢文で聞いたことを思い出しました。
憶えていたのは、単語のレベルですが、一つは「刮目」、もう一つは「男子」。
この2つをキーワードにして検索したら出てきました。
中国の歴史書「三国志」、その中に次のように書かれているそうです。
『粛 、蒙の背を拊(う)ちて曰く、「吾れ 謂 ( おも )えらく、 大弟 但(た)だ武略有るのみと。 今に至りて、学識英博、復(ま)た呉下の阿蒙に非ず」と。
蒙曰く、「士別れて三日なれば、 即ち更に刮目( かつもく )して相待つべし」と。』
これにより、「男子三日会わざれば刮目して見よ」の故事成語となり、その断片を辛うじて記憶に留めていたことになります。
これが「女子」だったらもっと鮮明な記憶だったかも知れません。・・・私としたことが表題の普遍性を逸脱してしまいましたが。
でも、この「辛うじて何々する」というところ、非常に人間的ですよね。 辛うじてとは、どうしたらいいか分らないところを何とか切り抜けるというニュアンスですから。 即ち、選択肢が無い場面で選択を迫られることと言えるのであって、そこに悩みが生まれるのです。
コンピュータはそんなことはありません。何故ならコンピュータは悩みませんから。何故悩まないかと言えば、予めプログラムされてることしかやらないからです。
悩むというのは、選択肢が無いが故に悩むのであって、有れば悩みません。
原発事故での東電のようなものです。彼らは、愚かにも自らに都合のよい規格枠を設定しその枠のなかで自らをプログラムしました。 そして、自らに都合の悪い事象に対しては、「想定外というプログラム」を充てたのです。 「想定外というプログラム」は中身的には「何もしない」というプログラムです。量的に言えばゼロ、プログラミング的には"null"に充たります。 それでも、プログラムは在ることになります。 だから、東電の都合など斟酌しない自然が起こす事象の中のある事象では、何もしないプログラムが実行され、悩むこともなく大事故を起こしてしまいました。
従って、東電は低機能のプログラムしか持たないコンピュータのようなものでした。
今、原子力規制委員会がしてることは、プログラムの仕様を設定しなおし、その仕様をクリヤしてるかどうか性能検査してるようなもの。
出来れば悩むコンピュータにして欲しいものです。この「悩むコンピュータ」、・・・出来るかな?
少し反れましたが、要するに、私も人間的だと言いたいわけです。だから、少しくらい普遍性を逸脱してもいいでしょうと言うわけです。
弁解はそれくらいにして、表題についてその意味を説明します。 「時間を超えてる」とは、桑原君の部下の女子職員が生きた時代と、三国志の時代は、1800年くらいの時間差があるのに同じ様な、 即ち、刮目して見るような大変身が起こっている。性も同じだ。1800年前は男子、今は女子の違いだけ。それで「性を超えた」となったのでした。 それにしても、解説しなければならない表題なんてナンセンスでしたね。 (2013/6/23 9:22)