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数多い品種の中で、百人一首の古歌を思い出させる名前のついた菖蒲に目が行った。
「雲居の空」という菖蒲だ。
花も点けている。よく見れば名札の下に「早生」と書いてある。
わたの原 こぎいでてみれば 久方の
雲居にまがふ 沖つ白波
この和歌から採ったものだろう。
小生、僅かな差異にまで立ち入って花を選ぶほどのデリカシーはないが、この花名につられて写真を撮った。
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更に、その近くの畝に、同じ本歌とりの名前を発見した。
こちらはまだ花がない。
しかし、名前がいい。「沖津白波」だ。
この「わたの原」の和歌、小生に限って言えば、どちらかというと下の句が好き。
上の句は、ま、言えば並みだと思う。
何かの折、頭に浮かぶのは下の句だ。
雲居にまがふ 沖つ白波
この名フレーズを思いついた歌人は、藤原忠通(1097〜1164年)。百人一首では「法性寺入道前関白太政大臣」の名乗りとなっている。
人となりなどは知らないが、この時代は平安も末期、保元の乱など武家の台頭が始ったころだ。
そんな時代にも拘わらず、この和歌、「詞書によると、「海上遠望」という題詠で、作者の心の中を描き出したものであるが、おおらかな詠風は、
見事に大景をとらえて、藤原氏の氏の長者らしい忠通の風格をうかがわせるものである。」と紹介されている(息子が高校時代に使った教科書)。
「雲居にまがふ」は、雲と見分けがつかないような。「雲居」は雲のある所。「まがふ」は、まぎれて区別のつかぬこと。
確かに、少し時化た海の沖の方を見ていると、海と空の区別がつかない情景はありますよね。
あなた方も「雲居にまがふ 沖つ白波」、何かの折にふっと思い浮かぶかも知れませんね。
最後に上の句の出だしの「わたの原」の「わた」、これは「海」のことだと書いてある。上記の教科書にだが。
初めて聞くことなので、古語辞典(岩波書店)で調べたら、「うみ」とあり、語源は朝鮮語Pata(海)と同源とあった。
改めて、朝鮮との古い関わりに思いを致した次第。
なのに、「どうしてこんなに仲が悪いのだろう?」と思うことになる。
我々は、誤りは水に流す文化だが、彼らはそうではない文化のようだ。
若しかしたら、昔々、水に流す思考の一群が、流さない群と袂を分かつて渡海したということもあったかも知れない。
語源の民への期待は、「わたの様な寛容」だ。そうでないと無限に続くような気がする。文化の違いだから。
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