西洋石楠花

H24/4/26
石井俊雄
今日も雨、明日も雨、憂鬱な天気だ。
家で腐っていても仕方ないので、雨の合間に近くの公園に行ってみた。
石楠花と山吹が盛りでその写真を掲載します。よかったらご覧ください。
 
たんぽぽなどの野草が迎えてくれました。
 
 
西洋石楠花です。原は日本の和石楠花が西洋で品種改良されたものだそうです。
日当たりのいいところのはもう散りかけていましたが、幸いこの石楠花は北面する山裾に咲いた所為か今が盛りのようでした。
 
 
 
ご存知、「山吹」です。
山吹は太田道灌の逸話と和歌で有名ですよね。
道灌に蓑を貸して欲しいと頼まれた娘御は、
七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき
の和歌とともに山吹の一枝を差し出したという。
この逸話はつとに有名だったと見えて、時代は下って江戸中期、四方赤良は次の狂歌を詠み、
山吹の鼻紙ばかり紙入れに実の一つだになきぞ悲しき
喝采を受けた由。
この人は幕臣で「蜀山人」とか「太田南畝」とも名乗ったそうです。 借金を頼まれたら黙って鼻紙でも差し出したかも知れませんね。
 
 
 
 
桜は散ってしまいました。その上、今日は雨。更に追い討ちを掛けるのが明日の雨の予報。
これでもかと、人の気も知らないでつれない天気です。
・・・昔、聴いた「人の気も知らないで」というシャンソンを思い出します。 フランスの本場ではダミアのが、国内では淡谷のり子のが有名ですが、今日は、岸洋子のを聴いてみましょう。 アコーデオンの出だしが素敵だから。少しは悪天候のことも忘れられるでしょう。
訳詩は「奥山 靉(あい)」ですが、素晴しい訳ですよね。淡谷のり子のでは、歌詞は一番のを繰り返したと記憶してますが、 岸洋子のでは、二番の歌詞をちゃんと歌っています。 そして、岸洋子は一番より二番が上手く歌えてますね。 岸洋子クラスでも出だしの一番では調子が出ないこともあるのかな、という感じを受けます。 一番は余りよくないから。それに比べると二番では本来の引き締まった声になってると思います。 評論家ではないから本当かどうか知らないけどそんなに思います。 二番は素晴しい。アンコールするなら、「二番だけアンコール!」と云はなければなりません。
話違うけど、今日、渋谷に「渋谷ヒカリエ」という高層複合タワーが開業したとか。 元の「東急文化会館」の後継施設だそうです。 ここ7〜8年くらい、跡地が空いたままでしたけど愈々ですね。 「東急文化会館」は昭和31年に開業したので我々にとっても身近な施設でした。 聞けば、30〜40代の世代がターゲットだとか。大人の空間、期待できそう。これから精々行ってみようと思います。
 
 
 
 
(4/28日追記)
今朝は久し振りの晴れ、気分よし、布団干した。洗濯物干し直した。
そして、更なる幸福を求めて、今朝の朝日新聞のBe紙面上の"song"欄に載ったアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」の主題歌 「残酷な天使のテーゼ」を聴いてみた。 だがその冒険は無残な失敗に終った。 一言で言うと「つまらない」のだ。
理由は、メロディーが単調、リズムも単調、音楽性に乏しい。
余計なお世話だが、どうしこの曲が採り上げられたのか理解に苦しむ。
エヴァンゲリオンとは、アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」のこと。あるいはそれに登場する主役ロボット群の総称。 これだけ人気のアニメ作品、もっと増しな曲が付けばどれほどの成功を勝ち得たであろうかと想うと惜しまれる。
朝日新聞にはがっかりしたが、朝ドラの「梅ちゃん先生」では思わぬ曲を聴いて楽しかった。 それは片岡鶴太郎が歌う「復興節」だ。
彼は歌が上手いね!感心した。絵も上手だとか。結構マルチな才能の人みたい。 この曲は関東大震災の後1923年頃大流行したそうだ。歌詞を少し書いてみる。
家は焼けても江戸っ子の
意気は消えないみておくれ アラヨ オヤマ
忽ち並んだバラックに
夜は寝ながらお月様眺めて エーゾ エーゾ

帝都復興エーゾエーゾ

騒ぎの最中に生まれた子供
つけた名前が震太郎 アラマ オヤマ
震次に震作、シン子に復子
其の子が大きくなりゃ地震も話の種 エーゾ エーゾ

帝都復興 エーゾ エーゾ

田舎の父さんお見舞いに
やって来て上野の山で吃驚仰天し アラマ オヤマ
すっかり焼けたと聞いて来たが
焼けたか焼けねえのかどちらを向いても屋根ばかり

帝都復興 エーゾ エーゾ
この歌を聴いて思うのは、我々とバラックの深い繋がり。
我々の祖先は、何かの震災や戦災や大火事の後、このようにバラックを建てて日常の生業を建ててきたのだと思う。 日本人とバラック、深い繋がりがあるわけだ。
一般に日本家屋は30年ほどの耐用年数で建てるそうです。 残念ながら、バラックの延長上にあると思わざるを得ない。
また、兵器もバラック的な気がする。 零戦の装甲はゼロだったそうだし、一式陸上攻撃機のオイルタンクの装甲もゼロだったとか。
また、宇宙開発に際しても、その始まりはペンシルロケットという鉛筆大のロケットを開発し、 それが今でも誇らしく語られるところにバラック指向の国民性が発露している。
原発もそう。
思うにバラック指向の国民性の本質は視野の問題だと思う。起こり得る事象を360度の視野で捉えないで、半分くらいの視野で捉え、 残りの事象については目を瞑る。 理由はとりあえず間に合わすためだ。
そして、不幸にして目を瞑った事象が起きると「想定外」と称して反省もなく、次のバラック建築に精を出す。 歌のように「忽ち並んだバラックに夜は寝ながらお月様眺めて エーゾ エーゾ」となるのだ。
このフレーズが大衆に受けるところが切ない。・・・何でこんなに刹那的なの?
原因は地震や風水害が多発する地理上の特性の所為だと思う。 縄文以来数千年の蓄積を経て今や確固とした国民性となったのだ。 これは、変えられるだろうか?それとも一蓮托生で付き合っていくか?
付き合っていくとなれば、とても原発のようなハイリスクなものは無理だと思う。 理由は、バラック指向のいいところは直ぐ再生するところにあるが、 ハイリスクはそれを許さないから。
 
 
 
 
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