Burning Glow

2019/12/07 石井ト
一昨日の12月5日、聖跡桜ケ丘の近くで積和不動産のイベントがあり、それに参加したが、その帰り道、奇麗な夕焼けに出会った。
場所は、多摩川に架る「府中四谷橋」から2kmほど川上に遡ったサイクリング道上から、南西方向を見たものだ。
初めは気がつかず、のほほんと自転車を動かしていたが、近所の人と思われるおっさんが、 一眼レフを構えて富士山の方向を見ながらカメラを抱え何かを待ってるいる様子なのに気がつき、 暫し考えて、夕焼けの空が茜雲に映える富士山の景色を切り取ろうとしてるいることに気がついた。
小生もそれに倣って、切り取りました。
そのような写真、良かったらご覧ください。
01
最初に気付いた景色、夕焼け富士です。(撮影時間:16:28:18)
写ってる川は「多摩川」。右から左へと流れます。富士山までの距離は約100kmほどです。
近所のおっさんは、どうやら茜雲を撮りたくて待ってるみたいでした。
 
02
約4分後の映像です。見事な茜雲がお出ましになりました。近所の人は、長い経験から、そのタイミングを熟知しているのでしょう。 今後、参考にしなくっちゃ。(撮影時間:16:32:00)
夕焼け、英語で"burning glow"から、映画「日の当たる島」の主題歌"Island In The Sun"を思い出した。
As morning breaks the heaven on high (朝が明け昼となり)
I lift my heavy load to the sky (俺は仕事の荷を担ぐ)
Sun comes down with a burning glow (夕陽が燃えて輝けば)
mingles my sweat with the earthly low (我が汗が夕陽に映えて輝く)
映画「日の当たる島」の一節のコピーだ。"burning glow"良く言ったものだよね。感じ出てる!
この夕焼けショー5〜6分の命で・・・やがて深い静寂が星を飾ることになる、「旅人よ」の岩谷時子の詩のように。 最後の輝きを放つこの時間が儚くも輝かしい。・・・沈む太陽は曳き戻せない。 泣けど叫べど戻せない。残酷なことだが。人の命も斯くやありなむ。
奴隷の哲学者エピクテトス(西暦50年〜135年、の古代ギリシアのストア派の哲学者)は言った。
「我々次第であるもの」と「我々次第でないもの」を峻別せよと説く。自分でコントロールできないものを過剰に望めば心の自由を失う。
と。これ、毎日新聞12月9日朝刊の書評欄(磯田道史評)からの孫引き。・・・となると、受け入れるしかないとなる。仮令残酷なことでも。
人は残酷な現実に遭遇したとき、嘗て癒されたことのある幸せな思い出に救いを求めるのだ。
03
例えば、井の頭公園の素敵な情景だ。
ちょっと見た目には、この道、どこまでも続いているように見える。 だが、現実はそうではなく、ここから300mほどで玉川上水とクロスしその先は井の頭公園の南側部分となる。
だが、そんなことを知らないなら、一見、この道は何処までも続いて伸びているように感じられるだろう。 このように現実を超越した錯覚、即ち希望、これが残酷な現実から救ってくれる神の手の本質ではないだろうか。 我々は我々自身で生きるのである。錯覚(illusion)を駆使しながら。或いは、錯覚に塗(まみ)れながら・・・かな。
では、「錯覚とは何だろう?」となると、私は、「信じること」だと思う。 信じれば事実となる。何故なら、事実の認定はその人の理性の専管事項だからだ。言わば総理大臣の解散権のようなもの。 本人以外、何者も侵し得ないという意味で、両者は共通している。
そんな世の中、共通するものは自然だけ、となるだろう。
和歌で言えば、
人はいさ 心もしらず ふるさとは
花ぞ昔の 香ににほひける (小倉百人一首 紀貫之)
である。
「ふるさと」、即ち世の中には、自然以外に共通のものはない、と詠ってると読める。
紀貫之は「古今和歌集」の中心人物で、あの有名なかな序を書いた人。西暦905年のことである。・・・ 1100年も前によくぞ人の心の在り様に思いを馳せていたとは流石の感を免れ得ない。