平成30年春 続続

H30/3/28
石井ト
昨日(3月27日)、多摩湖自転車道で見付けた春景色を掲載します。
よかったらご覧ください。
都立東村山中央公園での春景色です。(撮影13:30頃)
昨日は、聊か霞がかった天気でした。それでも、暖かく、学校も概ね先週の金曜までで終業となり、春休みを楽しむ親子連れで賑わっていました。
井の頭公園の満開の花景色です。
井の頭公園の井の頭池は、ついこの間までかいぼり(池の浚渫工事)を大々的にやってましたが、どうやら、花のシーズンに間に合わせて工事完了したようです。 池はなみなみと水を湛えていました。
これは「アッツ桜」。白と赤のカップを買ってきて、先ず赤のを露地植えしたところ。可憐な花の風情が気に入りました。
かくて我が家でも、桜が咲いたのでした。世はまさに花盛り?。
店で、アッツ島原産かと訊いたが、応えは曖昧でした。でも、よく使うコメリというホームセンターでも、「アッツ桜」というネーミングで売ってましたので、 結構流通してるのかな、というところです。
今朝の毎日新聞に上田敏の訳詩集「海潮音」からブラウニングの詩「春の朝」を引いてました。
季節柄中々いいと思ったので、孫引きして記しておきます。
時は春
日は朝(あした)
朝は七時
片岡に露満ちて
揚雲雀なのりいで
蝸牛枝に這ひ
神、空に知ろしめす
すべて世は事もなし
「揚雲雀」、「蝸牛」、ルビを付ろうかと思いましたが、見た目が悪いので、止めました。それに、不要だろうというのもありますし。「朝」だけは念のためです。
ところで、上田敏で学校で習ったのは、ポール・ヴェルレーヌの「落葉」という訳詩。
秋の日の
ヴィオロンの
ためいきの
身にしみて
ひたぶるに
うら悲し。
・・・
ですよね。でも、それは秋の詩。今は春だから、ブラウニングの「春の朝」がよろしいようです。 このような「春の朝」の写真、撮ってみたいと思います。・・・でも、朝がね!・・・と言うより腕がね!問題。
いい写真あったらお寄せ下されば有難い。
最後に、「揚雲雀」と「ひばり」との違いは、前者がひばりが高く飛びあがった姿を言うようです。 だから、ひばりはひばりなんですね。揚雲雀という種がいるわけではないのです。それで「おおひばり」という曲にリンク張っておきます。 「おお」は多分、感嘆詞でしょう。種を言うのではなく。 ここをクリックしてください
ちょっとピアノが強すぎるようだし、歌も強すぎると思う。忙しくて春らしくないよね! こんなに息せき切ったように歌わなきゃいけないの?・・・しかし、音はまあまあ。他のよりいいようなので、とりました。 でも、男声がイマイチ。女声はいいと思う。多分向かって左の女性がいい音だしてるのかなという感じです。素振りからですが。 音楽性は素振りに出るはずだから。指揮者を見ればわかるように。
この曲、原曲はメンデルスゾーン作曲『6つの歌』Op.48の第4曲。1839年の作品です。名曲ですね。訳詩も素晴らしい。
そういえば、メンデルスゾーンは、バッハの「マタイ受難曲」を約100年ぶりに復活甦演させた事で有名で、 これが契機になり現代では揺るぎない存在であるバッハ再評価の動きが始まった事も非常に有名です。
ご存じかと思いますが、この「マタイ受難曲」を聴けばバッハの天才振りが分かります。 録音装置もなかった時代に、これだけの多重音声の曲が書けたことには本当に感嘆します。
思うにこの曲のファイナルコーラスが際立っていると思います。聴いてみますか、 ・・・このサイト、最初の20秒くらいを我慢すると、素敵な主題が現れ、あなたを魅了するでしょう。 ここをクリックしてください
もう一曲リンクはっておきます。それは、「マタイ受難曲」の中の"Erbarme dich, mein Gott"(慈悲深い我が神)。 ここをクリックしてください。 こんな曲を聴けば、悪人は悔い改め、善人はより善人になる決心をするだろうというような曲ですよね。 このサイト、アクセス数が259万回余り、クラシックでは珍しいほど多いと思います。コントラルトもいいがソロのヴアイオリンも素晴らしい!
この曲、同じくバッハのヴァイオリンソナタ4番と最初の方が同じメロディのようです。どちらが先に書かれたかは調べてないけど、聴いてみて試してください。 グレン・グールドのピアノとユージン・メニューヒンのヴァイオリンと言う組み合わせですが
Galou (Roth)の"Galou"は、Delphine Galou(デルフィン・ガロウ)。1997生まれのフランス人コントラルト歌手。 コントラルトとは、低音の女声の歌手という意味。高音の場合は「ソプラノ」と言うのの低音版です。 Galou (Roth)の"Roth"は、指揮者。Francois-Xavier Roth(フランシオーサ・ザビエル・ロサ)。
このような多重音声の曲を聴けば、わが国の宗教界の音楽性と比べたくなるのが人情というものだろう。 だが、比べようもないほどわが国のは貧弱だよね。 原因は、わが国の宗教界が音楽の持つ力に気が付いてないからだと思う。昔も今も。
では何故気が付かなかったかと言えば、発声法の違いが原因だろう。 我々の民謡はよく「喉を聴かせる」と表現するように喉を使うからだ。喉を使うと二声を合わせるという経験ができにくくなる。 何故なら、喉を使う発声法は個々の人それぞれに音が微妙に変化するから、もう一人の人が合わせようとしても合わせにくくなり、精々合わせたとしても、 同じ音で合わせるのが精々となるからだ。・・・そんなことをしてる内は、二声の多重音(要するに和音)の持つ素晴らしさに気づくことはないはず。
だが、そのような言わばソフト面の違いに拠る説明の外、ハード面の違い、があるかも知れない。 そうなると映画「マイフェアレディー」の音声学者ヒギンズ教授のような専門家にきかないと駄目となる。 ・・・だが、多分、ハード面の差異はない、と言うだろう。だが、音響学的見地から、頭蓋骨の大きさ、喉や声帯、口腔の形、肺活量、などの民族的特徴が、 この差異の原因だと主張する可能性もないとは言えまい。
あるいはその民族が長年に亘って生き続けてきた地域の環境に、人間の耳が良しとした音の記憶に原因があるとなるかもである。 ・・・結局、「大和は 国のまほろば たたなづく 青垣山ごもれる 大和し 美し」と歌われた大和のくには、水豊にして、青垣、即ち緑豊かな地域では、 自然が発する音が多様雑多であることから、民の好みは単音を良しとするものになったのかも知れない。周りが音に満ちてるからだ。
一方、自然が厳しく、音が単調な世界では、民の好みは単音ではなくむしろ多音を良しとするものになったかも知れない。何故なら、その方が賑やかだからだ。
・・・そんな想像をしたくなるほど、多声(ポリフォニー :"polyphony") の世界と単音(モノフォニー"monophony")の世界は違っているが、 両者を比べた場合、単音より多声の世界がより複雑な音楽世界を作り出すことができるのは自明であろう。 何故なら、音楽とは結局のところ音の組み合わせということであるから、多声の方がより組み合わせの場合の数が大きいと言えるからである。 そのような意味で、幼児期などの早い年齢から多声の世界に馴染んだ方がよいのではないだろうか。和太鼓などに毒されてはいけない。あれは音楽ではないと思う。 何故なら、和太鼓にはメロディがないからだ。
喉を使わないしメロディがある音楽の例として、 バッハのブランデンブルグ協奏曲No.5にリンク張っておきます。 この音源は、1970年のもので、ピアノはグレン・グールド。 録音は少し古いが、私が聴いた数あるランデンブルグ協奏曲No.5の中で一番だと思った音源です。 特に他と違ったのは、中間部にあるピアノソロの長いパーツ。そこがいつも単調で眠くなってましたが、グールドのは、そんなことなく楽しく聴くことができました。 この5番は、長い曲なので、敬遠気味でしたが、グールドのなら、喜んで聴きたい気がします。
グレン・グールドはカナダのピアニスト。 デビュー作「ゴールトベルク変奏曲」の録音において、旧来のバッハ演奏とは異なる軽やかで躍動感あふれる演奏を、 ピアノの豊かな音色と個性的な奏法により実現した。 彼はバッハの偉大な演奏者と評されるとともに彼自身バッハに傾倒したそうです。(ウイキペディアより引用)
「ゴールトベルク変奏曲」、ここをクリックしてください。 「ゴールトベルク変奏曲」って眠くなる曲と理解していたが、グールドのはメリハリがついてて、そうでもないみたい。
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