俺より先は駄目!と言ったのに

石井俊雄
年取ると段々センチメンタルになる。
昔のことが懐かしいのだ。
祖父や祖母、母、叔父叔母、従兄弟たち、友人、など、今は遠くへいった人達が懐かしい。 年寄りになった証拠だね。気が弱くなったのだろう。
昔から、平家物語ではないが、世の中は「常ならず」ということは、学んでいたが、それは知識としての理解であり、 現実の腑に落ちた理解ではなかったことが今、理解できた。
本当にどうしようもないほどの「常ならず」だということが、身に浸みるこの頃である。
そんな中で心に浮かぶ和歌は、百人一首は鎌倉右大臣の古歌
世の中は つねにもがもな なぎさこぐ
あまの小舟の つなでかなしも
だ。
綱手(つなで)とは、海辺の浅瀬や川などで水夫が舟を引く綱のこと。
世の中に綱手をつけて、変わりゆく世の中を今に繋ぎ止めたいという歌意で、世の無常を嘆じる心情が詠われている。
小生も、無謀にも、無常を嘆じる心情を自由詩に書いてみた。「俺より先は駄目!と言ったのに」だ。
世の中変わっていきますね
自分ではどうしようもありません
できることはただ受け入れるだけ
快活な振りをしながら
涙など見せないで

餓鬼のころは世の中が今のまま
ずーっと続くと信じていた
だけどそれは単なるイルージョン(幻想)
今では空席の目立つ劇場で
私は順番を待っている

嘗てそこには漢たちがいた
よく麻雀をしたものだ
憶えているだろう徹夜したりして
勝った負けたの修羅場だったが
信頼で結ばれていた

だが今や信頼は崩れ
順番待ちが意味をなさなくなった
我先にと断りもなく去っていく
早いもの勝ちとでもいうように
俺より先は駄目!と言ったのに
まだ書き足りないが、我が能力ではここまでだ。 でも、浮かんだら書き足すかも。
話変わるが、昔、メリー・ホプキンという歌手がいて "Those were the days" (邦題「悲しい天使」)というポップスをうたって一世を風靡した。 リリースは1968年、昭和43年だ。
邦題は「悲しい天使」だが、原題は「あの日の頃」というようなもので、「悲しい」とか「天使」などという言葉はない。 当時、「悲しい何々」というようなポップスが流行っていたせいで、変な名前でリリースされてしまったのだ。
でもこの曲の主題は、若いころを懐かしむ懐旧の歌なのだ。そのことが私をしてこの曲にリンクを張らせたのだ。
原曲の歌詞や邦訳にリンクを張っておくから、確認してみたら分かると思う。邦訳での題名は、「あの頃の日々」(右近 訳)である。 原曲は ここをクリック、 歌詞と邦訳は ここをクリック。(歌詞の4行目の出だしが、歌詞では"And dreamed of" となっているが、声は、"Think of" と歌っている。 だが、このサイトの邦訳がいいので、このままにすることにした。)
調べたら、原曲は、コンスタンツィン・ポドレフスキー(1889年〜1930年)の詩に、 ボリス・フォミーン(1900年〜1948年)がジプシー音楽の様式で曲づけした歌「長い道」である。 1910年〜1920年ごろの作品とされる。歌詞の内容は、昔の思い出を懐かしみ感傷に浸っている様子を描いたものである。
原曲がロシア人の手になるものだとのこと。そういえば、ロシア民謡の匂いがする。 この曲をビートルズのポール・マッカートニーが、 当時18歳のフォーク歌手メリー・ホプキンをプロデュースして「悲しき天使」のシングルを発表。国際的にヒットしたそうだ。 (この段、ウイキペディアから抜粋)
第五句を追加しよう
ランボー*ではないが
私は別の誰かである
この世の無常を知ったから
だが頭の中の鐘は沈黙し
風も吹かない
* 今年のノーベル文学賞に輝いたボブ・ディランが、若いころ、 フランスの詩人ランボーの「わたしはべつのだれかである」という一節を目にして、頭の中の鐘が「一気に鳴り始めた」のだった。 その結果生まれたのが、名曲「風に吹かれて」だったと言われている。(毎日新聞の「余禄」(10月15日)より孫引き)
思い出したが、昔、そう、マージャンなどに浮き身をやつしていたころ、若かったが女っ気はなかった。 音楽を聴いて憧れてはいたが。
その音楽の中に "Young Love" というポップスがあった。 当時は金もなく、ラジオで聴くのが精一杯で、思い切り聴くことはかなわなかった。 その若いころを懐かしんでその曲、聴いてみよう。当時の声、ソニー・ジェームスで。
聴いてみましたが、この歌手、少しだが音がずれてるね。・・・この音ズレすごく気になる。 大概の歌手は音がぴったしだが、例えばジュリー・アンドリュースなら安心して聴いていられる。
若いころのことを句にした第六句〜第十四句を追加する
若いころ私は物理学に挑戦した
それも相対論と量子力学に
未知への好奇心に惹かれ
楽観的だった
高校物理の延長戦のつもりで
私は国語や社会など所謂人文系の学科には興味が湧かなった
それに反し理系の学科には成程と腑に落ちるものがあった
そのころ特に面白いと思ったのは核融合
入試科目が理系の3科目だった日大理工物理学科を選んだ
ミステリーツアーの始まりだ
日大理工物理学科は開設したばかりで
9名の学生が一期生として採用された
教授陣は京大系の若い先生たちで教え方は下手だったと思う
毎日、黒板に書かれた方程式をノートにとるのに追われたものだ
ミステリーの世界を理解するより以前に方程式で躓いた
量子力学は抽象世界への冒険旅行
その旅行は今も続いている
若い時挫折して老後再挑戦する人って多いそうだ
解ったことは皆解ってなかったこと
俺だけかと思ってた
だが私は落ち込まなかった
生来の楽観主義者らしい
何とかなる主義ともいうが
何とかなったと思う
今を生きているから
今にして思うと解らなっかのは教え方の所為
先生自体、本当は解ってなかったのだ
黒板を方程式で埋めるやり方が問題だった
もっとラジカルな考え方を示すべきだったのだ
それを実践した人がいる、米国のファインマン博士だ
量子世界は二重構造になっている
我々が観測できる実数の世界と
その裏に直接観測できない複素数の世界が隠れている
この奇妙な複素数が電子を記述する
このようにファインマン博士**は主張した
今年のノーベル物理学賞は
トポロジカル相転移と物質のトポロジカル相の理論的発見
トポロジカル絶縁体の中に渦が
どこにどのくらいあるのかを見るためのメガネを発見したのだ
量子力学とトポロジー(位相幾何学)とのコラボが期待できそう
量子力学は原子的なスケールにおける現象を記述するもの
その大きさが非常に小さいものは
我々が日常直接に経験するものと全く似ていない
古典力学では取扱えないミステリーが実在している
トポロジーの眼鏡でミステリーが見えるだろうか
** 米国の理論物理学者でノーベル物理学賞を受賞(1965年)した。 彼の著書「ファインマン物理学」を、サイエンス・ゼロのキャスターである竹内薫が翻訳・解説した入門書 「ファインマン物理学(量子力学と相対性理論を中心として)」より引用。
なお、孫や甥や姪や若い人が物理学を志すなら、「ファインマン物理学」を読むことを薦めた方がいいと思う。
ファインマンの写真を見ると頭の天辺が異常に大きいことが分かる。私に比べてだが。 そのサイトにリンク張っておくので比べてみたらよい。 ここをクリックだ
おまけに音楽をつけておきます。 ポール・マッカトニーが作詞・作曲し、メリー・ホプキンをプロデュースした第2作、"Goodbye" だ。 ここをクリックだ
これでサヨナラの積りだが、気分が出るかもしれない。
わが人生を振り返って思うことは
好きな事しかやってこなかったということ
傑作は物理学への挑戦だった
後悔はしていない
"Artificial Correctness"***と向合わなくてよかったから
*** 人造真の意で私の造語だ。アメリカ大統領選挙を賑わしている"Political Correctness"(政治真)があるが、 この言葉からの類推で造った。所謂、エビデンス(証拠)の無い真実のこと。 反対語は"Natural Correctness"(自然真)。
先に "Those were the days" のところで、この曲の原曲はロシア民謡とかきましたが、 それを納得するバージョンのを聴いてみましょう。 言葉が何語かは解らないが、どうやらロシア語らしい。
歌手は、ヘレーネ・フィッシャー(Helene Fischer、1984年8月5日 - )は、ドイツの女性歌手。 出身地はクラスノヤルスク(ロシア連邦シベリア中部の都市)。 初めの頃はもっぱら美しい歌声でのみ知られていたが、 やがて激しいダンスやサーカス風のショーを取り入れさらに観客を魅了するようになった。 ヨーロッパで知名度が高い。(ウイキペディアより引用)
楽しんで歌ってるよね。ものおじしないで。 音楽が好きだって感じで。 それに、聴衆の反応がいい。まさにロシア民謡だね。 でも、このイベントの会場はイタリアのベネチァのようだ。
この曲、ロシアでは、色んなイベントで演奏される曲だそうだ。 ロシア語バージョンの、聴いてみますか。 ここをクリックしてください
わが国にはこんな感じの音楽はないよね。・・・ポルカというのかな、 緩急織り交ぜてクライマックに持っていく音楽。
邦楽と西洋音楽を比喩的に語るなら、前者が腰折れなら、後者は直立姿勢、かな。 邦楽の基本は喉だと思う。後者は発声だ。 体格の相違を腰折れでカバーするし、声量のか細さを喉を震わせてカバーするとそうなるのだろうし、 肉食で有り余るパワーを爆発させると、口全体を使った発声となる、という感じだろう。 どちらがいいかという問題ではないが、基本はフィジカルの違いにあると思う。 そうでないと、違いが説明できないような気がする。
邦楽と西洋音楽の違いの顕著な例として、 バッハのブランデンブルグ協奏曲の6番を聴いてみよう。 歴然たる違いが解るというものだ。
この曲と、ヘレーネ・フィッシャーの"Those were the days"、感じが似ていると感じませんか? 私にはかなり似ているように思えますが。
 
 
 
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