- 十一月の川柳連歌
十一月の川柳連歌、次のようになりました。
なお、「*」は、発句に複数の後句が付いて場合を表しています。記載の順序は投句の到着順です。
また、「#」は、575に対する形式的な調整の提案を表しています。
77が先の場合は、77を先に書き、後句の575は、後に書くこととします。
57577は1行で表示します。
括弧書きは、作者による短い解説文です。
(晩秋)
物置から 湯たんぽ出した 爺かな (石井ト)
電気毛布じゃ 足りないのかも (石井ト)
(思いつくままにー])
何度も母は箪笥の引き出し開け閉めし、米と交換する着物を選ぶ01 (野中しん)
雨の日に壊れた傘を思い出し、兄と2人一本の傘で学校に行く02 (野中しん)
遠足で母がリュックに入れてくれたリンゴ、食わずに持ち帰り妹弟に与えし03 (野中しん)
(母)
病む母は 箪笥に無数の 紐結ぶ04 (さがん)
(思いつくままにー]T)
ラングーンの日本人墓地で涙する、老婆が一人守するを見て05 (野中しん)
沖縄の辺野古埋め立て強行す、県民の声に聞く耳持たず06 (野中しん)
里の秋3番まで歌ってやっと知る、父の無事を祈る親子の姿を07 (野中しん)
暇あれば帰ってこいよと兄が云う、3年前に妻を亡くして08 (野中しん)
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コメント
(01)終戦直後で有ったと思うが、着物を包んだ風呂敷を抱え、母に連れられ農家に行ったが地味な着物は受け取って貰えず、
がっかりした思い出がある。母が昔着た晴れ着は将来の妹の為となかなか手放そうとしなかった為でもある。
未だにその時の悪い印象が頭を過ぎり、最近TPPで日本の農業は全滅だと聞いても余り農家に対し同情の念が湧かない。
小生の狭量の所為でもあるが
(02)相当濡れたが風邪をひいたか記憶にない。自転車は1台しかなく父が乗って行った。
小学奨学4年生でやっと自転車に乗れるようになった。通学は、兄も僕もすべて裸足で約1時間歩いたが、
お陰で相当足腰が鍛えられたように思う。
(03)朝出かけるときに2人が欲しそうに見ていたのを思い出して食えなかった。
当時リンゴは貴重品で、母は相当無理をしていたのを子供心に感じとっていたと思う。
バナナなどは、病気にでもならない限り食べさせて貰えなかった。
長姉を幼き日自家中毒で亡くした為、母は絶対生ものは子どもに与えなかった
(04)母は晩年認知症を患い、箪笥の引出しの金具の把手全てに短く切った紙ひもを結びつけていた。箪笥は祖母の形見。その頃よく”家に帰りたい”と呟いてもいた。傍目には分からぬが、母なりに動機や意味があったに相違ない。その寂しげな姿を思い出すと切なさが募る。
(05)旧ビルマのインパール作戦は史上最も稚拙な作戦と言われ、約10万人の将兵が参加、生還せしもの僅かに1万人、
約7万名がビルマの土となった。乾期の3月に作戦開始、チンドウィン川は乾期の涸れ川で容易に渡河できたが、
後方支援無きまま将兵は飢えと疫病で倒れ、作戦失敗の7月には雨期に入り、
雪解けもあって対岸も見えぬ大河と化し撤退する将兵は渡河出来ず、その殆どが溺死したという。
久留米の56師団は福岡、佐賀、長崎の出身者で編成されたもので、他人事とは思えなかった記憶がある。
あと10年ぐらい先に生まれていたら俺も危なかったなーと感慨に耽ったものである。
それにしても英国人の墓地は広大な敷地の中に、故人の墓標が何百と建てられ、個人名と生年と享年が
はっきりと刻まれていた。勝者と敗者の格差に茫然とさせられた。
(06)・・・沖縄県民かく戦えり、県民に対し後世特別のご配慮を賜らんことを 太田実少将
(07)最初は里の平和な風景しか浮かばなかったが、後年誰かに3番まで歌ってみろと言われて3番まで歌ってみると、
囲炉裏の前で栗の実を煮ながら、出征している父の無事帰還を祈っている親子の情景が浮かんで来た。
小学校の頃は1番と精々2番までのうろ覚えで有ったと記憶するが,作詞者の本当の意図は全然読めていなかった。
(08)いつもは元気な兄は、この頃一寸弱音を吐くようになった様に思われる。
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十二月の発句
十二月の発句は、
老いらくや 大根の葉に 舌が惚れ (石井ト)
です。
青梅に住んではや4年有余、農家の知人もでき、野菜など、採れたてをわけてもらえるようになりました。
それで初めて知ったのですが、大根の葉っぱってとても柔くて美味いものなんですね。
この歳でなんだか大発見した気分です。
何故なら、スーパーで買ってきたものは、葉が落としてあるから、あれは食えないからだと思っていたのです。
でもね、朝採れの大根の葉っぱ、柔らかくてとても美味いですよ。吃驚しました。
大げさに言えば、生きててよかった!というほどです。
皆さん、575や77、お寄せください。