台風一過朝香詩

 
石井俊雄
昨日午後、6月としては8年ぶりに上陸した強い台風4号は、紀伊半島から列島を縦断するように北東へ進んだ。
首都圏でも新名所の東京スカイツリーが予定を早めて営業を終了、空の便も大きく乱れ、 新幹線以下運転見合わせも多数で、列車内で夜明かしの人も多かったようです。
小生宅でもかなり準備をして戦々恐々として雨戸を閉めたりして寝みました。
だけど、一夜明けた今日は晴天。 小生宅は無事でした。小さな庭に落花が二つ三つ、やれやれです。
その落花を見て浮かんだのは、杜朴の「江南春絶句」の中の「多少の楼台煙雨の中」という一節。
それをもじって漢詩を書いてみました。遊びですので非厳密さはご勘弁を。
台風四号襲来来台風四号襲来し来る
列島上陸八年来  列島上陸は八年来のこと
列車夜明多数人  列車で夜明す多数の人あり
多少落花小僅庭  多少の落花我が僅かな庭にも
杜牧(830−853)。字は牧之。晩唐を代表する詩人。京兆万年の人。杜甫に対して「小杜」と言われます。主に七言絶句に才能を発揮しました。 杜朴の「江南春絶句」を書いておきます。
千里鶯啼緑映紅千里鶯啼いて緑紅に映ず
水村山郭酒旗風  水村山郭酒旗の風
南朝四百八十寺  南朝四百八十寺
多少楼台煙雨中  多少の楼台煙雨の中
もう少し書き足したいけど、取り合えずここで止めときます。台風一過の朝の香りの失せぬ間に見て欲しいから。
 
 
 
我々と漢詩・漢字との深い縁について少し追記したい。
日本人の祖先は、固有の文字を持っていなかった。そこへ、海を越えて漢字が伝わった。 その影響は圧倒的に大きく、次のようなものがある。
(1)その漢字の音訓を借りて作られた万葉仮名で口伝の詩歌を書きとめたのが万葉集。 その後、九〜十世紀の平安前期には、貴族に要求されたのは漢文の教養であり、漢詩文が流行した。 勅撰漢詩集も編まれたほどだ。
(2)日本人は漢字を用いることにより、日本固有の言葉を漢字を用いて表すとともに、漢語自体も採り入れた。 本来女性的で優しさに富むが、聊か単調であった日本語は、漢語を採り入れることで、適度に男性的な、厳しい要素を加えたのだ。
(3)もう一つは、漢語の採用によって抽象思考が可能になったこと。
(4)詩歌に関しては漢詩漢文の影響は極めて強く、日本人は漢詩を読むだけではなく、自作も試みた。 また、日本固有の詩歌にも漢詩の影響は顕著だ。
詩歌への影響について幾つか例示しよう。
(1)有名なのは、頼山陽作の七言絶句「不識庵 機山を撃つの図に題す」(不識庵は上杉謙信、機山は武田信玄。いわゆる川中島合戦の詩)。
鞭聲粛粛夜過河弁声粛粛 夜川を渡る
暁見千兵擁大牙  暁に見る 千兵の大牙を擁するを
遺恨十年磨一剣  遺恨十年 一剣を磨き
流星光底逸長蛇  流星光底 長蛇を逸す
(2)俳句の正岡子規は、和歌にも長けていたが、漢詩にも造詣が深かった。 子規が残した最後の漢詩(題は「無題」)を書いてみる。
馬鹿野郎糞野郎馬鹿野郎 糞野郎
一棒打尽金剛王  一棒打き尽す金剛王を
再過五台山下路  再び過ぎる五台山下の路
野草花開風自涼  野草花開いて風自ずから涼
子規の俳句が漢詩から影響を受けていることは、これまで多くの指摘があり、ここで例を挙げよう。 王維の「過香積寺」(香積寺を過ぎる)を見てみる。
不知香積寺香積寺を不知らず
数里入雲峯  数里 雲峯に入る
古木無人径  古木 人径無く
深山何処鐘  深山 何処の鐘
泉声咽危石泉声 危石に咽(むせ)び
日色冷青松  日色 青松に冷やかなり
薄暮空潭曲  薄暮 空潭の曲(ほとり)
安禅制毒龍  安禅 毒龍を制す
この王維の詩から、子規はつぎのような俳句を得ている。
道細く 人にも逢わず 夏木立
ひやひやと 朝日うつりて 松青し
毒龍を 静めて淵の 色寒し
こうした例は他にも多数みることができる。(この節「正岡子規の漢詩」(佐藤利行著)より抜粋。)
(3)また、与謝蕪村は「春風馬堤曲」という詩がある。 十八首からなる詩文だが、中は発句(連歌の第一句)、付合(連歌の前句に後句を付けたもの)、自由漢詩などから成っている。 蕪村の本業は画家で、同時代の池大雅とともに日本文人画の大成者とされているが、文人画の範は中国にあり、 その詩画一体を日本の文化風土に移そうとしたのである。 その詩歌上の成果が「春風馬堤曲」という詩である。 その中の第九首を書くと、
呼雛籬外鶏籬(まがき)の外の鶏(とり)雛(ひな)を呼ぶ
籬外草満地  籬の外草は地に満つ
雛飛欲越籬  雛は籬を越えて飛ばんと欲す
籬高堕三四  籬高く堕(落)ちること三四尺
もう一首、今度は発句を書くと、
一軒の茶店の柳老けにけり
とある。(当段全般を、高橋睦郎著中公新書「漢詩百首」より引用)
かかる歴史的実績を思えば、我々の詩興に漢詩・漢文の趣の交じるを誰か止めることが出来ようか。仮令、拙くとも。
 
 
 
音律について少しだけ追記する。
日本人の祖先は、固有の文字を持っていなかったことは前節で記したことであるが、もう一つ日本に無かったものがある。 それは、音律。そう、小学校で習ったド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ドの音の並びのようなものだ。
私達は、今ではそれがあるのが当然のこととして何の不思議も感じてないが、よく考えると不思議だ。
ご存知のように、音というのは連続的に変化する。 胡弓という楽器があるが、これは弦を押さえる指の位置で無段階に変化する。 指を弦の方向に滑らせながら弾くとキューンと連続的な音の変化が起こることから、その連続性が分かるのだ。
今、ある「音」が在るとして、その次にどのような「音」が来るかは勝手なはずなのに、 ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ドの音階に従えば、「ド」の次は「レ」と決まっている。 このように、連続値である音の中からある離散値の並びを決定するという行為、これを「音律」と呼ぶのだが、 この「音律」をどうやって決めたのだろう?
現在のド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ドの音階は19世紀半ばに西洋音楽が導入した「平均律」に依っている。 だが、我国にはそれ以前から邦楽という文化がある以上、何んらかの取決め(音階)があったはず。
調べると、日本音楽は、「民謡音階(みんようおんかい)」、「律音階(りつおんかい)」、「都節音階(みやこぶしおんかい)」、 「琉球音階(りゅうきゅうおんかい)」のような限られた音からなる音階で成立していたことが分かった。 この中の「律」という言葉は、中国から入ってきたもので、古代中国の国家規格である律に基づく音階を意味する言葉である。 「ド―レ―ファ ソ―ラ―ド」で構成される音階で、国歌「君が代」はこの音階でできている。
それまでは、口伝という伝授法によって耳を通して保持されてきたが、 この「律」に基づく調律法が伝わったことで人の官能に依存しない調律が可能になった。
では、その「律」の「音階」をどうやって楽器に移したのだろう?
その答えは紀元前三世紀ころ編纂された「呂氏春秋」の中の伝説で述べられている。 それによると、昔、黄帝が伶倫という楽人に音律を作るように命じたとある。 伶倫は、現在のアフガニスタンの北部の地域で西方の調律の方法を獲得した。 メソポタミアに発祥したバビロニアなど古代文明では、 既に純正五度に基づく調律の方法が出来ていたのだ。
この伝説は、古代西方の調律の方法が、古代中国に伝えられたことを物語っている。 その昔、中国でも、遥か後年に我国がやった遣唐使のようなことを、意図的にやっていたわけであり、この点が凄く面白い。 「なんだ、お前もか!」とね。・・・文明なんてそんなものかも。
我国も、中国から「律」を得とくし調律方法を学んだことは、漢字・漢文と並んで有難いことであったと思う。
ではどうやって実際に楽器に音程を刻んでいたのだろう。
  1. 先ず、黄鐘という基準の音を出す鐘を造る。
  2. 次に、黄鐘の基準音に合う音を出す竹の管を作りその音を「宮」とする。これは黄鐘の音と一致するように竹の管の長さを調整すれば出来るのだ。
  3. 「宮」の長さの3分の一だけ短くした笛を作ると、その音は純正五度高くなり「徴」と呼ぶ。すなわち「宮」の音が「ド」なら「ソ」の音を出す竹管が出来るわけだ。
  4. 「徴」の笛の長さの3分の一を加えた笛を作れば、その高さは純正四度低くなり、その音を「商」とする。「商」は「レ」の音となる。
  5. 「商」の長さの3分の一だけ短くした笛を作ると、その音は純正五度上の音を「羽」とする。すなわち「ラ」となる。
  6. 「羽」の笛の長さの3分の一を加えた笛を作れば、その高さは純正四度低くなり、その音を「角」とする。「角」は「ミ」の音となる。
かくて、宮−徴−商−羽−角という五つの音が刻まれた竹笛が得られたのだ。同一の音程を持つ竹笛が大量生産できることとなった。
この五音は「五声」と呼ばれ、五音音階が構築できる。 この調律の方法を、古代中国では「三分損益法」と呼んでいた。(この段、藤森守著平凡社「響きの考古学」より引用)
ところで最後に質問だが、若し、中国から音律が入って来なかったとしたら、日本人だけで「音律」が作れただろうか? 歴史に若しは無いというけど、「音律」という概念に達することができただろうか? 漢字導入なくしても、「文字」という概念には達していたと思うが、「音律」はどうかな?・・・余り自信ない。 何故なら、日本人はシステム構築力が弱いから。ということは、 例えば物事を原子というような最小構成要素に分割して考えるという発想が弱いことを意味する。 最小構成要素への分解という発想があれば、組み上げるという工程が不可欠となることから構築力が育成されるのだが、 それが無い場合は、その大本の発想が無いことに起因すると考えるのが自然である。 「音律」は当に音楽の最小構成要素なのだ。 思えば、漢字も最小構成要素に分割するという発想からは遠い。アルファベットは26文字であるが、漢字は数万、明らかに分解能が低い。 こうなると、人間の根源的思考法のベースが違うということになりそうだ。 分析思考か実用思考かということになるとしたらどちらがお好みかな?
余談ながら、ドイツ人は前者的であり単位要素を使って見事な構造物を構築する。 一方、イギリス人は経験不可能な事柄の真理を考えることはできないというイギリス経験論を引き継ぎ、 物事の真理を実際の経験の結果により判断し、効果のあるものは真理であるとするプラグマティズム(実用主義・実際主義)に拠っている。 日本人はどうかと言えば職人主義。 個々のものは器用に作るがシステム(構築物)をインテグレートするという発想がない。 システムとかインテグレート(個々のものを統合する)という英語に上手くフィットする日本語の単語がないことがそれを表象していると思う。 兎に角、東洋的混沌の中に自然発生的に出来た思い思いの構築物が雑居すると言うイメージだろう。漢字を思えばいいかも知れない。
と言うことは、個別には優秀だが、その成果を皆に分かつ思想というか習慣が無いということではなかろうか。 別の言葉で言えば情報共有のための社会インフラが無かったということになる。
そう言えば、我国では辻説法という言葉があるが、宗教活動としてのそれであり、自説を広報するという目的のものはかつて無かった。 習慣が無いからだ。 そんなことしたら変人扱いされるのが落ちだった。 その点、古代ギリシャの都市国家アテナイでは、広場(ギリシャ語で「アゴラ」)で通りかかった人々に自説をぶっつけて話をすることが出来た。 その点、我国では話は出来なかっただろう。そこに習慣というか風俗と言うか文化と言うか得も言えない相違があったと思う。 多分、歴史・文化の蓄積の差だと思うが、アテナイには、その地域、所謂、オリエント地域の歴史・文化の蓄積があった。 何しろメソポタミヤ・エジプトという5千年来の古代文明を包含する地域なのだから。
歴史で重要なのはこのような歴史の意味するところというものではないだろうか。ポエニ戦争がいつ起こったとか、 ホメロスがオデュッセイを書いたとかは、史実ではあるがそれ自体が現在の人に直接影響力を持つとは考え難い。 今の歴史教育、そんな史実をなんぼ教えてもそれほどの意味は無いだろう。 小生は歴史は得意だったけどね。そんなことでよかったから。
 
 
 
前節で音律について少しだけ追記したが、その結果、とても面白いテーマを発見した。 それは、「音律発達史」とでもいうべきもの。
前節で、メソポタミアに発祥したバビロニアなど古代文明では、既に純正五度を発見していたことに触れたが、 更なる記述によると、紀元前20世紀頃のエジプト王朝の墳墓から純正5度に刻まれた笛が発見されていたことが記されている。
この話で面白いのは、4千年も前に「音律」という概念が既に確立されていたこと。 音波測定器もない時代にどうやって周波数を決めたのだろう。 払われたであろう並々ならぬ努力にはさして感動しないが、それを求めた人々の知性・感性・民度には感動する。
調べてみるとこの「音律」には長い歴史があり現在も完成に至らず発達途上にあるという事実。 別途、この発達史に触れたい。・・・少し研究した後でだが。
 
 
 
 
 
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