海ゆかば 水漬く屍

徳永 博
過日、横浜霧ヶ峰の書店「ブック・オフ」で齋藤茂吉の「万葉秀歌」上下、岩波新書版を見つけ、2冊210円で購入し、ほくほく顔で帰宅した。以来、外出する度に上下いずれかをポケットに忍ばせ、紐解くのを楽しみにしている。
茂吉の「万葉集」は自分と同じ年、昭和13年に第1刷が発行されて以来50年、岩波新書の中では稀有な、戦前、戦後を通じて愛読され続けている超ロングセラーである。初版の出た昭和13年当時は、右翼や軍部の極端な天皇崇拝や、賀茂真淵の唱える「ますらおぶり」を称揚するものとして「万葉集」がもてはやされた時代であったが、茂吉はこのような時代の風潮に流されることなく、彼にとって「すぐれた」歌を選び出している。その中のいくつかは天皇の御歌であっても、それを神格化することなく、むしろ皇女や宮廷女官等との間に交わした恋文のようにみなすことによって、反って活きた人の歌の力を表現している。また防人夫婦間に取り交わした歌の多くが、出征兵士や彼等を送る妻の心境を詠うものとして、民衆の中で詠まれ続けた。それが15年戦争の暗い時代と、戦後も数十年に渡って版を重ねた理由なのであろう。私が最近入手したのは1988年第58刷である。
秋の野の み草刈り葺き宿れりし
兎道の宮処の 仮廬し思ほゆ  [巻1.7]         額田王
斉明天皇や天智天皇に仕えた宮廷歌人額田王は、天皇や皇太子(大海人皇子)との間に交わした幾つかの相聞歌で名高いが、この「兎道の仮廬」で詠んだ歌が私は好きだ。
「兎」からすぐに文部省唱歌の「ふるさと」を想い出す人も多いが、茂吉の解説によれば、「兎道」は山城国宇治だそうだから、私にとっては、大学生の最初の1年を、宇治市五ヶ庄で過ごした青春の想い出につながってゆく。大学の宇治分校も、黄檗山万福寺近くの私の下宿も、まさに仮廬だった。それが半世紀後の今になって、懐かしく想い出される。今は秋、その後訪ねることもない宇治の仮庵は、今はどうなっているのであろうか。
ひむがしの野に かぎろひの立つ見えて
かへり見すれば 月かたぶきぬ  [巻1.48]      柿本人麿
中学生の頃、「古文」で習った、有名な柿本人麿の歌、茂吉によれば「阿騎野にやどった翌朝,日出前の東天に既に暁の光がみなぎり、それが雪の降った阿騎野にも映って見える。その時西の方をふりかえると、もう月が落ちかかっている、というのである」と。
人麿の淡々とした情景描写に、私が今住んでいる、晩秋の横浜若葉台の朝を重ねて見る。夏の頃から続いているNHK朝6時半のラジオ体操のために、まだ暗いうちから起床し身支度を整えて、若葉台中央のグランドに出てみると、東の方三保市民の森の木立が暁の色に染まり、来た方を振り返ると、西の空に淡い色の満月が落ちかかっている情景は、万葉集の頃と変わらない。応仁の乱も、関ヶ原の戦いも、戊辰戦争も、そして大空襲に続く米軍の本土上陸さへ取沙汰された太平洋戦争も、この国土を変えてしまうことはできなかった。「かぎろひ」も、「かたぶく月」も万葉の昔とすこしも変わらないことを確かめ、この邦土に生まれた幸せを憶う。
わが宿のいささ群竹吹く風の
音のかそけきこの夕かも   [巻19・4291]      大伴家持
「いささ群竹はいささかな竹林で、庭の一隅にこもって竹林があった趣である。一首は、私の家の小竹林に、夕方の風が吹いて、幽かな音をたてている。あわれなこの夕がたよ」と茂吉は解説する。雄大な芦野ガ原の竹林ではなく、庭の一隅の竹の群生を想起したのは、彼が昭和期東京の下町に居を構えていたからではないか。私の住む横浜若葉台の近くにも、新治市民の森があり、その一隅に、京都嵯峨野程ではないが、鬱蒼とした竹林がある。それが晩秋の風に吹かれているのを見ると,家持と同じように、憂愁に心がかきむしられるように思うのは、私だけだろうか。
茂吉の「万葉秀歌」は、四千五百程もある万葉集の短歌の内、四百余首を収録したに過ぎない。先に掲げた額田王、柿本人麿と共に、大伴家持の短歌は、比較的多数が撰ばれているが、新書版という限られた頁数では、彼が遺した長歌を収録することはできなかったのであろう。しかし、この時期、多くの人たちが詠みたがっていた、家持の「 陸奥国に金を出す詔書を賀す歌一首、併せて短歌」 [巻18・4094] が収録されていないのは、何としても惜しい。そこで他の文献から、この大伴家持の長歌の前半部分を紹介する。
葦原の 瑞穂の国を 天下り 知らし召しける 皇祖の 神の命の 御代重ね 天の日嗣と 知らし来る 君の御代御代 敷きませる 四方の国には 山川を 広み厚みと 奉る みつき宝は 数へえず 尽くしもかねつ しかれども 我が大君の 諸人を 誘ひたまひ よきことを 始めたまひて 金かも たしけくあらむと 思ほして 下悩ますに 鶏が鳴く 東の国の 陸奥の 小田なる山に 黄金ありと 申したまへれ 御心を 明らめたまひ 天地の 神相うづなひ 皇祖の 御霊助けて 遠き代に かかりしことを 我が御代に 顕はしてあれば 食す国は 栄えむものと 神ながら 思ほしめして 武士の 八十伴の緒を まつろへの 向けのまにまに 老人も 女童も しが願ふ 心足らひに 撫でたまひ 治めたまへば ここをしも あやに貴み 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖の その名をば 大久米主と 負ひ持ちて 仕へし官 海ゆかば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじと言立て 丈夫の 清きその名を 古よ 今の現に 流さへる 祖の子どもぞ 大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たず 大君に まつろふものと 言ひ継げる 言の官ぞ 梓弓 手に取り持ちて 剣大刀 腰に取り佩き 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守り 我れをおきて 人はあらじと いや立て 思ひし増さる 大君の 御言のさきの聞けば
この長歌の中の「海ゆかば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじ」が昭和初期、軍国主義の風潮に載って国民の間で愛唱されるようになり、1937年NHKの委嘱を受けた作曲家信時潔によって、国民唱歌として作曲された。これが有名になったのは、1943年山本五十六大将の戦死を告げるNHK放送のBGMにこの曲が流れたことで、その後サイパン、グアム、硫黄島と皇軍の玉砕が報じられる時に決まって流されたので、玉砕兵士への鎮魂歌として、人々の間で重々しく歌われるようになった。曲はゆるやかなテンポの荘重な雅歌で、帝国海軍はこれを第二国歌として称揚した。信時潔は1887年日本基督一致教会大阪北教会の牧師、吉岡弘毅の三男として生まれ、東京音楽学校を卒業後、母校の教授となり後進を育てたほか、作曲家として活躍した。従って彼の作曲した「海ゆかば」には、父が牧していた教会で歌われていた讃美歌の旋律が内在しているという。宮内庁雅楽部による「君が代」とは、少し違った趣が感じられるのは、そのためであろうか。
1945年敗戦後、「海ゆかば」は「君が代」や他の軍歌、国民唱歌とともに追放の憂き目に遭った。その後戦後の復古調の波に乗って、「軍艦マーチ」がパチンコ屋のコマーシャルソング、「べきらの淵」が右翼の街宣歌、そして「君が代」が、はじめは相撲の歌、ついで「国歌」として、文部省の後押しで強制的に歌われるようになってからも、この「海ゆかば」は歌われることはない。先の大戦で亡くなった三百万兵士、また国内や旧植民地、占領地で戦火に仆れた二千万の同胞たち、アジア市民の霊を慰める歌としては、これに勝るものはないと思うのは、私一人だけだろうか。
 
 
 
 
「海ゆかば」です。 この歌を聴き、国に殉じた人たちのことを憶うとき、思想・信条を抜きにして涙を止めることはできないと思う。 日本人ならば。(HP管理者)
 
 
 
 
 
 
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