H25全陶展と雑談の会

石井俊雄
一昨日、11月20日(水)、上野公園の中にある東京都美術館で催された全陶展を観にいきました。
何故なら、石井浩四郎君の作品が全陶展入選となり出展されているので。
集まったのは8名、展覧会を見て、その後、昼食を食べて雑談しました。
秋らしい好天に恵まれ、上野公園はとても賑わっていました。
 
 
石井浩四郎君の作品「備前面取壺」です。
堂々たるフォルム、黒色から茶色への景色、が力強い作品かと思います。
 
 
小久保公子作「練り込み組皿」です。
銘々皿風の使い易そうな感じがよい。
以下、幾つか小生の目に留まったものを掲載してみます。
 
 
蛇石純美作「彩泥あじさい紋皿」です。
毎朝お世話になるパン皿に良さそうと思って選んでみました。
これくらい、広くないと、パン粉が散って厄介だから、いいかなという感じです。
 
 
山本幸雄作「ふじ紋彩壺」です。
これは、近藤さんの目にとまったもの。・・・そう言われれば、何となく感じが出てるような気がします。
 
 
安楽和彦作「備前福耳窯変花器」です。
これも、花でも活ければ我が家の居間も冴えてくるのではとの思いから選びました。
 
 
会場の一部の俯瞰図です。
このように、数百の作品が展示されていました。
 
 
東京都美術館の正面玄関口にて。
 
 
正面玄関の前の広場には、球形の鏡がありました。その鏡に写った仲間たち。
このアングルでの撮影は、確か、槇原(陽)さんの発案だったと記憶します。面白いですよね。 小生もカメラを構えたまま写っています。
小生、腕に白いものが見えますが、それは右手に巻いた包帯です。でも、左手に巻いたように見えますね。
この写真では、右手が使えなかったという証拠としては不十分ですよね。・・・このネタ、探偵小説でも書こうかな。
 
 
会場から出て中華料理屋に向かうところ。
楽しそうですね。逸る心の為せる業かな。
 
 
蓬莱閣の入口です。去年もここで昼食をとりました。
 
 
紹興酒の写真です。
私は、燗瓶で一本頼んだ積りでしたが、実際きたのは写ってるこの四合瓶でした。 だから、残るとどうしようと心配だったけど、気が付いたときは空になってました。 杞憂に終わって良かったけど、皆さん、結構強いじゃないですか!それが良かったです。
この紹興酒のラベルには、「陳五年」と書かれています。筒井さんにきいたら五年仕込みという意味だとか。 そのせいか、とてもまろやかで何杯でもいけそうな味でした。 飲み方は、熱燗でとって盃にザラメの砂糖を盃の半分程度の高さまで入れ、そこに熱い紹興酒を注ぎ、暫時置いて、シュガーが溶け出した頃、 その上澄みをくっと飲るという仕方。
ポイントは、この「陳五年」の文字。これが少ない年数だと美味くない。 注意を要するところです。
それから、もう一つ。それは、食後に頼んだお茶の種類。 小生の記憶では、去年は古老茶とかいうのを頼んだけど、今回は「梅酸茶」というのを頼んでみた。 そうしたら、出てきたのはコップに入ったコーラのような色の冷たい飲み物。 小生、熱いのをイメージしていたので、氷が浮かんだコップの中のドリンクを見て些か失望してしまった。 でも、物事はやってみるもの、実際飲んで見たら素敵な味でした。 些か油じみてしつこい感じの中華料理を食べた後は、このお茶を飲んだら、そのしつこさからも解放されるような爽やかなドリンクでした。 一度、試す価値はあると思います。
ティータイムで驚いたのは、皆んな珈琲を注文したこと。 店のメニューには、載っているのだから、たまには注文する人もあるのかな、と理解していた。 でも、8人中7人が珈琲を注文するとは思ってもみなかった。仰天だ。
でも、注文する側は兎も角として、店側の珈琲という言わば異文化に対する柔軟な姿勢には感心してしまう。 思うに、中華5千年の歴史の中核を成す中華思想とは、周辺国の民族、文化、を取り込んで同化する拡大思想を云うが、 お茶の世界でも例外とはされないようだ。 店側としては、珈琲という異文化を取り込むことで、巧まずして中華思想を実践したことになる。・・・えらいものだね!感心する。
斯くて、世界の色々な文化が、他の文化と同化して行くとき、遠い将来、どんな文化になるのだろう? いくつかの文化が併存するのだろうか。それとも一つの文化に収斂してしまうのだろうか。
どうせそんなになるまで生きないからどうでもいいが、皆一つに収斂してしまって「世界料理」しかない世界にだけは住みたくない。 だから早死も悪くないと言うべきだろう。
 
 
昼食会を終え、家路につく人、ターナー展を見る人、佐賀・長崎物産展を覗く人、に分かれました。
小生は、マルボーロを求めて物産展の方にいきましたが、北島のが無かったので、マルボーロは止め、他の佐賀のものを買いました。 あめがた、青のりのせんべい、切り羊羹、竹八の葉隠漬け(山海漬け)、海茸のかす漬け、です。 中では、佐賀弁も飛び交っていました。啄木の心境で聴きました。
以上、楽しいイベントをありがとう。また、よろしく!
最後に素敵な音楽を貼り付けよう。曲は、ヘンリー・マンシーニの「シャレード」。 なぜなら、映画に出てくる公園の中の屋台のシーンが、この写真と似てるから。
シャレードとは、「騙し合い」という意味。なるほど、映画の内容に合致した題名ですよね。
歌詞は、ネットのここより引用した。
我々は、普通、英語の音楽を聴いても、その音声を楽器のように聴く、と思う。何故なら、言葉が分からないから。 音声という楽器が発するメロディのみを聴きとり、その歌詞が保つ意味は、理解しないまま捨てる、という聴き方だと思う。
でも、齢75にもなると、そろそろ、歌詞の意味にも、興味が湧いてくるのではないだろうか。
そんな時、役に立つのがインターネットだ。検索すると、大概の歌詞が分かってくる。
この「シャレード」にしても、そんな方法で歌詞を拾い、初めてその意味を理解したのだ。 分かれば、その曲の良さも増してくるように思った。皆さんもそうだと思う。
もう少し付け足そう。
それは、英語の歌詞にあって日本語の歌詞にないものについての話だが、それは、前置詞と冠詞のことだ。 冠詞は"a"とか"the"だが、これは置くとして、注目すべきは「前置詞」、例えば、"at"とか"in"とか、だ。 小生の浅学によれば漢文にも前置詞に当るものは無いはずだ。 ドイツ語には前置詞はある。だから、印欧諸語には前置詞があることは、推定可能だろう。
それで、何が言いたいかというと、前置詞があるとその言語が立体化するのではないかということだ。
日本語は、前置詞が無いからツルツルとどこまでも1階建ての建物のように音声が並んでいるだけだが、 英語では、前置詞によって1階から2階へ、2階から3階へ、など、一階建てには無い言わば2次元の広がりがあるのではないかと思う。
数日前、テレビを見ていたら、たまたま英会話の番組をやっていた。 中では、"There is a book on the table"という例題を掲げて、その文中の前置詞"on"の部分を、他の前置詞に置き換えた表現を教えていた。
"on"が"beside"なら、本がテーブルの側にある。
"on"が"under"なら、本がテーブルの下にある。
"on"が"over"なら、本がテーブルの上にある。
"on"が"in front of"なら、本がテーブルの手前にある。
"on"が"behind"なら、本がテーブルの後ろにある。
などだ。
ここで、一階にあるのはテーブルで、本が、2階や地階などの上下方向の位置、脇という水平方向の位置、など、 前置詞を使うことで本の立体的な位置が表せることを示している。 言わば、前置詞とは、名詞と名詞の立体関係を表現する単語なのだ。 日本語には、そんな器用な単語はない。あくまで、同列の単語を使った表現となる。例えば、「の上に」とか、「の側に」とか。 だから、日本語で、名詞と名詞の立体関係を表現するのは、出来なくはないが難しい。
例えば、"There is a cat beside a koban under the table"という構造の深度が3階のとき、「テーブルの下の小判の脇に猫がいる。」となるが、 この日本語では、「テーブルの下の」が「小判」に掛かるのか「猫」に掛かるのか、曖昧だ。 「猫」に掛かれば小判の位置はテーブルの下ではなくともよくなるからだ。修辞法上の問題かも知れないが、そうだとしても、線形の日本語では、 充分な表現ができないと言わざるを得ない。
さて、「シャレード」の歌詞の日英比較、更に、英会話のテレビ番組、の2つから言えることは、言語の持つ立体表現力だ。 日本語は、一階建ての1次元の言語、英語は、上下・水平の立体表現が可能な3次元の言語、と言えるのではないだろうか。 言わば、言語の自由度が大きい、と言えると思う。
更に言えば、言語は人間の思考力の表象、と考えられるので、民族の思考性の特徴を写したものだろう。 となると、印欧言語民族は立体思考、我が民族は線形(1次元)思考、と言えることになる。
この言語の持つ自由度の相違は、思考乃至は言語の進化の程度を示している、と思う。 我々日本人は、紙に書いたものを信用しない、というカルチャを持っている。 例えば、日本国憲法だ。この文章を不磨の大典とする一方で、憲法解釈という文化を育て上げてきた。 というように、文章はどうにでもなるものなのだ。いいことか悪いことかは、立場によって変わるだろうが、 未発達の幼い言語であることは間違いない。
我々は、その特性を自覚し、文章の立体表現において、位置的なものに時間軸(時制)を加えた4次元の表現力を持たねばならないと思う。 一言で言えば、「言語表現の構造化」だ。
言語は思考を写したもの、という考えに立てば、「思考」そのものから始めなければならないだろう。言わば「思考の立体化」が必要だ。
そのためには、物事を、正確に捉え、正確に表現、しなければならない。 となると、曖昧さが売りの宗教や芸術が影響を受けるだろう。でも、その影響は前向きなものではないだろうか。 むしろ進化をもたらすものと思う。「言語表現の構造化」とは、言わば、情報公開の方法の改革でもあるのだから。
例を一つだけ挙げよう。それは、仏教界のお経。これは意味も教えないまま漢文を棒読みするという究極の曖昧さで、無知な大衆を煙に巻くもの、 別な言葉で言えば篭絡するものだ。斯くて、曖昧さを売って生き延びて来たが、ガラパゴス化は進み、やがて島民はお坊さんだけとなるだろう。 となると、救済や解脱を目的とした宗教財というより、むしろ文化財的な存在として機能し続けることになるかも知れない。 ・・・いや、既にそうなってるかも。
ちょっと長くなったが、ヘンリー・マンシーニの素敵なメロディに合わせて歌詞を追ってる内、そんなことを思った。(この段追加、2013/11/24)
更にもう少し書き足そう。
以前、このHPに、「名詞構文と動詞構文」という短文を書いたことがあったが、その文の主張するところは、 、「西欧の言語が名詞中心構文であるのに日本語は動詞中心構文である。」ということであった。
その主張を裏付けるため、例えば「彼は英語を上手に話せる」という文を英訳する場合、どう表すかを次のように記した。
多くの日本人は、
He can speak English well.
とやってしまいますね。
しかし、英語圏の人間ならおそらく
He is a good speaker of English.
とやるでしょう。
英語はものごとを名詞で表現することが多く、日本語は動詞で表現することが多いのです。
そこで、この英語が名詞中心構文であるということがどのようなことか、考えてみよう。 名詞中心だから、西洋人の発想が、先ず、「もの」に着目することから始まると考えられる。 「もの」とは、英語で言えば、「オブジェクト」(object)だ。
一方、別の世界、即ち、コンピュータ・プログラミング言語の世界に目を転じてみよう。 ここでも、現実世界のデータとその使用方法をセットにして「モノ」として捉えるプログラミング方法が行われている。 その方法以外では大規模なシステム構築が不可能といわれるほど重要な方法だ。
この方法では、「オブジェクト指向プログラミング言語」と呼ばれる言語を用いる。 この言語は、世の中の事象を「もの」として把握するという方法をとる。 「もの」即ち、オブジェクトは、固有の属性値(プロパティ;情報、データ)と使用方法(メソッド)を有し、 プロパティとメソッドがセットになってオブジェクトとしてカプセル化されている。
西欧の言語が名詞中心構文というなら、コンピュータ・プログラミング言語はオブジェクト中心構文と言える。 オブジェクトも「もの」、名詞も「もの」、なのだから、西欧の言語がコンピュータ・プログラミング言語と似ていると言えるだろう。
世の中がインターネットの出現によってグローバル化された今、システムは大規模かつ複雑になっている。 そのような世界でも、世の中の事象を「もの」として把握するという方法によって、システムが構築され、問題が解決されている、という現実がある。 ということになれば、「もの」は名詞であるから「名詞中心構文」と「動詞中心構文」の優劣は前者が優勢と言えるだろう。
日本語が本当に動詞中心構文なのかどうかについては、疑問を呈する学者もあるようだが、現代の大規模かつ複雑になった世界では、 名詞中心のものの見方が必要なようだ。 そうすれば、メタな目線でものを見ることが常態化する可能性が高い。 動詞中心だと、「もの」を正確に認識する以前に、出来る出来ないや分る分からないという人間個々人の能力差が表に出てしまい、 それ以上進まないで留まるのではないだろうか。 そこにあるのは、多分、諦めや憧れなど、情緒的な世界の広がりだろう。(この段追加、2013/11/28)
 
 
 
 
 
 
 
 
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