「激戦の島ペリリュー島」へ行ってきました

平成27年3月日26   永渕素行
 
ペリリュー島は今年4月8〜日で天皇・皇后両陛下が慰霊のため訪問される島です。
ペリリュー島はパラオ共和国の中心のコロール島より南西40kmに位置し、大きさ、南北9km、東西3km、 人口700人?
高速艇で1時間30分です。
 
 
ペリリュー島全景、左側の小高い所が「水戸山」です。
 
1944年(昭和19年)アメリカ軍により総攻撃を受け日本軍との間で激戦が行われたのです。 パラオ国はドイツ領でした。1919年(大将8年)第一次世界大戦にドイツが破れ、国際連盟からの委任により、 日本が統治しました。
第二次大戦で日本国はフィリッピンを防衛するため東洋最大の飛行場を建設しました。
 
1000m級の飛行場で、現在でも軽飛行機は利用できます。
 
ゼロ戦200機配備、日本の絶対的防衛圏上の最重要な拠点だった。 そこでアメリカの総攻撃を受けました。
第1海兵師団長は「こんな小さな島の戦闘は2〜3日で片付ける」と豪語していた。 しかし、実際は2ヶ月半も戦闘が続きました。
日本軍の戦死者10,695名、生存者34名、アメリカ軍、戦死者2,336名、戦傷者8,450名、 精神に異常をきたした者数千名。
日本軍の中川大佐は、洞窟を利用し、洞窟を掘り地下へ潜り徹底抗戦し、持久戦に持ち込んだためです。
ペリリュー島に住む民間人は全て事前に他の島へ避難させたので犠牲者は無しでした。
 
1000人洞窟です。中は長く、枝分かれし、出口も多数あります。
 
 
いたる所にある洞窟です。
 
 
いたる所にある塹壕の跡。ちょっと見ても見つかりません。
 
 
壕の内部。砲や鉄かぶとが放置されていた。
 
 
中川大佐(隊長)が自決した洞窟です。
 
 
中川大佐は軍旗を奉焼し「サクラサクラ」の決別の電報を打ち自決した。
(残った副隊長は隊長の首を持ち突撃した)
 
 
2015年3月15日、2回目のペリリュー島訪問です。 先ず「慰霊塔=みたま」でご焼香です。
 
 
慰霊塔は島の一般人のお墓のすみに、ひっそりと建てられています。
島民のお墓
 
 
「みたま」前には、6年前にはなかった「戦没日本人の碑」が日本国政府により設置されてました。
 
 
戦友よ安らかに
 
 
島の中心部に「ペリリュー神社」が建てられていた。
ここでも全員焼香です。
 
 
ペリリュー神社に太平洋艦隊司令長官ミニッツの
「諸国から訪れた旅人達よ、この島を守るために、日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い、
玉砕したかを、伝えられよ!!」
と表示されていた。
 
 
旧日本軍の建物も内部を改装され資料館になっていた。
資料館外部
 
 
資料館内部
米軍の資料は別に展示されていた。
 
 
 
 
資料館の外には魚雷が錆びていた。
 
 
転がっている爆弾
 
 
守備隊本部跡
 
 
守備隊本部跡
爆撃の跡に木が覆い繁っている。
 
 
トイレ跡を見て、人が生活していたことを感じる。
 
 
放置された戦車(日本軍)
 
 
 
 
放置された米軍の戦車
(大きさも大きく、鉄板の厚さも厚い!)
 
 
洞窟の中に設置された大砲
 
 
 
 
零戦の残骸、ジャングルの中にあった。
 
 
零戦のそばにはバナナがなっていた。
 
 
島の頂上(水戸山)よりジャングル。その向こうに上陸が始まったオレンジビーチがある。
(関東軍の水戸連隊の人が多く、この山を水戸山と呼んでいた。)
 
 
死闘が行われたオレンジビーチ
千体を超える死体と血で海は真っ赤に染まったそうである。
 
 
水戸山の頂上にある機関銃の台座。
 
謎の女性兵士、梅の屋の芸者−久松が惚れた兵士をサポートするため、髪を長谷川理髪店で切り「ぼーず」になりゲートルを巻き、 物資運搬の舟でペリリュー島へ行き、兵士をサポートしながら、 最後は戦死した兵士に代わって機関銃を射ち続けて、米軍を手古摺らせた。 米軍は後日、勇敢な女性兵士の記念碑を建てたという話もある。−今は記念碑は無い。
 
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