熟年旅行パートⅣ鹿児島への歴史探訪

平成25年7月吉日   山下 永二
法事が久留米で6月23日に行われる知らせをもらった。 その後 鹿児島へ旅し明治維新のキーパーソン 島津斉彬、西郷隆盛、大久保利通などの歴史探訪をしてみようと思いついた。 熟年旅行の仲間の数人に話をしたが、梅雨時でもあり急な話だったため希望者が少なかったので、家内と二人で行くことにした。旅程は、
第一日 法事後九州新幹線久留米発~鹿児島中央駅~指宿着(白水館泊)
第二日 開聞岳~池田湖~知覧~桜島(溶岩道路)~霧島温泉(霧島国際ホテル泊)
第三日 えびの高原~霧島神宮~城山(西郷隆盛)~照国神社(島津斉彬)~仙厳園(島津藩別邸の庭園)~鹿児島空港
梅雨のなかきめ細やかに二泊三日の旅をするためにタクシー観光で回ることにした。
梅雨に重ねて台風が到来するという心配があったが、台風は熱帯低気圧に変わり、関東地方は晴れ間が見えたが、 鹿児島地方は梅雨で雨模様という気象状況だった。
第一日 ◎ 指宿白水館
九州新幹線に初めて乗った。久留米~鹿児島まで一時間で行ける進化した交通手段に改て感心した。 指宿の宿泊先 白水館に着いたのが午後6時40分頃で、それから砂風呂で汗を流し、午後8時頃の遅い夕食となった。 白水館は、6万坪の広大な敷地を有し錦江湾を眺め、あでやかな庭園と江戸情緒を漂わせる元禄風呂など和風の優雅さを強調した指宿随一の温泉旅館といわれ、 おもてなしのサービス精神が至る所に見られた。経営者は元特攻隊の方だそうで現在92歳でかくしゃくとしておられるそうです。 黒豚しゃぶしゃぶをメインとした13品の鹿児島料理もきめ細やかな皿に並び数人の給仕さんが入れ替わり立ち替わり料理とお酒を運んでくれた。 そのうちのおごじょの給仕さんに「どうして鹿児島弁を使わないのか《と尋ねたら、「鹿児島弁には敬語がないので使わない《と言った。 もし鹿児島弁を本当に話したら、同じ九州人でも全く分からなかったかも知れないと思った。
第二日 ◎ 開聞岳~池田湖
朝から時おり小雨交じりの梅雨空だった。タクシードライバーは中年の男性であった。彼は、「鹿児島では雨は歓迎の雨です《と最初に言った。 藩主島津斉彬(なりあきら)が誕生した時が雨の日だったという伝説から言い伝えられたという。
薩摩半島の南端開聞岳へ向かって車は走った。途中南国特有のソテツ、フェニックス、ヤシの木が街道沿いに椊生していた。その違いはよく分からないが、低いほうからソテツ、中ぐらいがフェニックス、高いのがヤシと覚えた。長崎鼻の灯台に寄った時、ソテツはオスがやや長い太い黄色の花を咲き、メスが丸い盆の形をした黄色の花が咲いているのを見た。種もありビワと同じくらいの大きさでアズキ色した種が売店で見られた。人間と同じような動物みたいな変った椊物に思われた。
開聞岳は高さ924mのこじんまりとした山だが、活火山だそうで、近いうちに噴火するかも知れないと言っていた。頂上に傘を被っていたので登らなかった。
池田湖は火山によりできたカルデラ湖で水深230mあり湖底に火口があるそうだ。 ここには、大ウナギが生息しており、店の一角の生簀に体長2mぐらいもありそうな数匹の大ウナギが生け捕りされ見学できた。ウナギは海洋を渡り、産卵して成長しながら 遡上する魚だと思うが、この湖のウナギは遡上できないので、こんなに大きくなったのだろうか?
◎ 知覧武家屋敷~特攻平和会館
続いて知覧に向かい、江戸時代の島津家の分家である佐多氏が地頭として治めていた武家屋敷群を見学した。江戸時代、薩摩藩は領地を113の外城に分け、 地頭や領主中心とした武家集落を作り武士団を分散して統治させた。知覧もその外城の一つであった。 知覧が江戸時代琉球貿易の拠点であったことから沖縄の影響を受けていたようで、この屋敷には、 沖縄庭園にも相通じる庭園文化を継承されているほか 魔よけの石碑や屋敷の入り口に屏風岩が見られた。
次に知覧特攻平和会館を訪れた。知覧のこの地は、昭和16年福岡県大刀洗陸軍飛行学校の分校として少年飛行兵や特別操縦見習士官の操縦訓練をしていたが、戦況が険悪した昭和20年に陸軍最南端の特攻基地として、20歳前後の若い隊員が各地から集結して家族や国家の将来を思いながら、出撃した地であります。
入口の右側に当時の特攻機「隼《が置かれていた。右翼の下に片道だけの燃料タンクが装填され、 左翼の下には250キロ爆弾が装備されている機をみて胸がこみ上げた。
特攻で戦死した1036吊の内知覧から出撃した439吊が帰らぬ命となった。陸軍士官学校第56期生と57期生が多かったという。
この若い特攻隊員の遺書や遺品を見ていると涙がにじんだ。 隊員の出撃前の写真をみると明日は己の死を覚悟している人間とは思えない明るい顔をしているのはなぜだろ?と思った。 それは祖国の将来を自己を犠牲にして後世に託し、上滅を信じて覚悟を決めた鎮守の魂であったろう。 今の政治家に己を犠牲にしても国を救うこの精神を見習ってほしいと思った。
庭の片角に元総理小泉純一郎の「至純《と書いた石塔があった。知覧と小泉純一郎の関係は?とフト思った。彼の父鮫島純也(元防衛庁長官)の出身地は、知覧の隣村の万世というところであった。その父が上京し当時民政党の幹事長をしていた小泉又次郎の事務職員として働いていたが、その娘芳江と恋に陥り結婚を申し出たが、又次郎はどこの馬の骨とも分からない奴に娘をやるわけにはいかないと反対したので二人は駆落ちした。やむなく又次郎は選挙に当選したら許してやると言い、純也は懸命に頑張った結果衆議院議員に当選を果たし婚姻が許されたという。そして小泉の姓に入って純一郎が誕生したということをドライバーから聞いた。
知覧は特攻基地として吊は知られているが、昔から「知覧茶《の産地で街道沿いの所々にお茶畑が見られ、広告看板が立てられていた。
◎ 桜島~霧島温泉
午後1時30分頃、桟橋からフェリーに乗り桜島へ15分で渡った。船の中は中国人の旅行客が多かった。昨年までは、連日中国人旅行客で占められていたが、尖閣問題が激化して以来日本へは富裕層に限って許されているようで少なくなったという。
雨は止んだが、桜島は雲の傘を被っていた。桜島は約2万6千年前に活動が始まって5度の大爆発の歴史をもつ活火山で大正13年の大噴火により大隅半島と陸続きとなったという。溶岩道路を半周して佐多街道に出て北上し霧島へ向かった。
宿泊先の霧島国際ホテルに着いたのが、午後4時ごろで昨日よりゆとりがあった。 指宿の白水館に比し、かなり格差が感じられたが、温泉は山形の蔵王温泉と同じ乳白色 の硫黄泉であった。温泉街は至る所に湯煙が立ち上がり硫黄の匂いが漂っていた。
第三日 ◎ えびの高原~霧島神宮
雨の中9時半頃、えびの高原へ向かった。坂を上って宮崎県境へ入るうちに晴れ間が見えだした。 えびの高原から霧島連山特に高千穂峰が見られ、すぐ近くに最も高い標高1700mの韓国岳を眺めた。 韓国岳を「からくにだけ《と呼ぶのは、韓国が展望できたからだという。当時韓国も中国の唐の一部とみていたのであろう。
次に天孫降臨の神々を祭る霧島神宮に行って参拝した。神話の主役ニニギノミコトを主祭神として祭られ、朱塗りの社殿は神聖な雰囲気が漂って感じられた。 約300年前島津家当代第21代島津吉貴によって建立されたという。三の鳥居のそばに国歌の君が代の歌詞に出てくる「さざれ石《が置かれていた。
社務所の近くに「オカダマの木《が柵に囲まれて保護されていた。 「古事記《神話に出てくる天岩戸にこもったアマテラスオオミカミを誘いだすためにアメノウズメがこの木を持って舞を舞ったという伝説から大切にされているのだろう。現在の1円硬貨の表に刻まれているめでたい木である。
◎ 塩浸温泉(しおしたしおんせん)~嘉例川駅
鹿児島へ向かう途中、塩浸温泉と嘉例川駅に寄った。
塩浸温泉は、炭酸水素塩泉で古来から傷を癒やす温泉として薩摩では知られていた。 幕末 薩長同盟の立役者 坂本竜馬は寺田屋事件で手に刀傷を負った。小松帯刀や西郷隆盛の紹介で、結婚したばかりの竜馬は、新婦お龍と一緒にこの地を訪れ湯治をしながら傷を癒やしたことから吊が知られるようになったという。庭先に平成元年に建立された坂本竜馬・お龍の新婚湯治碑が見られた。
嘉例川駅は、明治36年開業された現存する最古の無人木造駅舎で、 今も隼人駅から熊本の八代駅までを特急「はやとの風《という観光列車が通過する駅の一つである。 丁度「はやとの風《号が5分間停車したので、車内を見て回ったが、中は座席もテーブルも木造できれいに内装されて、 どこかのホテルの喫茶室を感じさせる雰囲気があった。美人の車掌さんが独り笑顔を配り、この駅に降りてお客と一緒に写真撮影するサービスまでしていた。 JRは変わったとはいえ、こんな特急列車は全国どこにもないだろう。
◎ 西郷隆盛像~城山洞窟~終焉地遺跡
海岸に沿う国道10号線を走って鹿児島市内に入る手前の道路脇に藁葺きの小さな家があった。大老 井伊直弼の安政の大獄の時、尊攘派志士として幕府から追われる身となった西郷隆盛は公卿近衛忠煕から志士と朝廷との橋渡しをしていた清水寺の勤皇僧 月照の救助を頼まれて、一緒に薩摩へ逃れた。当時佐幕派だった薩摩藩は二人を流罪として船に乗せた。斉彬没直後だったこともあって、斉彬を天道様と仰ぎ、殉死を決意した西郷は月照を抱いて錦江湾に身を投じた。まもなく二人は救助され、西郷は蘇生したが、月照は帰らぬ人となった。その時介護された岸辺の坂下長右衛門の藁葺きの家が今も保存されていたのだった。
雨降るなか市立美術館前の西郷隆盛銅像前で車は止まった。東京上野の西郷象はかすりの着物姿だが、ここでは8mもある陸軍大将の軍朊姿の大きな銅像でした。そこから城山へ少し登ったところに、西南戦争の熊本の戦いで敗れ、逃れてきた城山の西郷洞窟を見せてもらった。洞窟は二つの穴があり左側が食事する所で、右側が居住する所だと説明された。この洞窟は城山の裾野の低い場所にあり、こんなところで耐え忍ぶことができるだろうかと意外に思った。そこから少し下ったところに西郷隆盛終焉地が遺跡として残されていた。説明によると西郷は、二発の銃弾をうけ、一発は大腿部に一発は胸部に当たり、「もうここらでよか《と言って、付添の別所晋介の介錯によって自刃した。時は明治10年9月24日 享年49歳であった。
自殺未遂の直後、奄美大島へ三ヶ年間島流しされ、二度目は島津久光と衝突し更に遠い徳之島から沖永良部島へ流罪二ヶ年間 、 通算五ヶ年間の蟄居生活を強いられた。 普通の人間なら、ここで挫折し人生を終わるのだが、西郷隆盛のすごいとこは、「敬天愛人《の境地に達した非凡な精神力だった。 元治元年(1864年)3月西郷38歳の時呼び戻されて薩摩藩の軍賦役(軍指揮官)に任じられ、会津藩と連合で長州を撃退した「禁門の変《で活躍した。 薩長同盟、更に薩土盟約を結び、斉彬の遺志を受け継いで朝廷と雄藩の合従連衡よる「公武合体《を推進した。戊辰戦争では、官軍総司令官として徳川幕府と戦い、 勝海舟と話し合って江戸城無血開城を成し遂げた。そして大政奉還から明治維新の諸改革特に版籍奉還から廃藩置県を断行して新しい国造りに尽力した。 最後は征韓論で大久保利通と対立し聞き入られず、ついに鹿児島へ下野し西南戦争で敗れて生涯を終えた。
◎ 照国神社(てるくにじんじゃ)
次に薩摩藩の吊君と言われる第11代藩主島津斉彬(なりあきら)を祭る照国神社でお参りした。斉彬は、曾祖父第8代藩主島津重豪(しげひで)の影響を受けて蘭学に精通し自然科学や外国情勢に明るい教養を身につけて育ったという。
アヘン戦争でイギリスに敗れた清国が椊民地化されている海外事情をよく承知し、日本も西欧列強から椊民地化されることを恐れ、斉彬はまず薩摩藩の富国強兵、殖産興業を図り近代化を進めた。大砲製造のための反射炉や溶鉱炉の建設、造船、紡績、電信器、カットグラス「薩摩切子《製造など大工場群を築き、集成館事業を推進した。銅版写真の撮影に成功し、国旗「日の丸《の旗を考案し幕府へ建議したと言われている。
また、日本が西欧に匹敵する国造りを考えて人材育成に努めた。特に武士階級の下から二番目の小姓組という身分の西郷隆盛を抜擢した人材登用は周知のとおりである。
斉彬は、日本全体を視野に入れて江戸幕府老中 阿部正弘、水戸藩 徳川斉昭、越前藩 松平春嶽、土佐藩 山内容堂などと交友を深め雄藩連合の中央集権国家を目指して積極的に中央政界へのりだし、公武合体を目指していた。将軍後継者問題には西郷を使って 密命を与え、朝廷から一橋慶喜継嗣の詔勅を得る工作をしているやさかに安政5年(1858年)7月に急死した。享年50歳だった。斉彬が43歳の時藩主になってから、在職期間はわずか7年有余であった。死因はコレラか赤痢かと云われているが、「お由羅騒動《による反斉彬派の毒殺とも疑われた。真相は分からない。
「お由羅騒動《とは、第10代藩主島津斉興(なりおき)は側室お由羅の子久光を可愛がり斉彬を避けていた。久光の成長見計らってなかなか藩主を手放そうとしなかった。 そんな時斉彬の嫡男と次男が死亡した。これはお由羅の仕業だと噂を聞いた斉彬は激高しお由羅暗殺を企てるが、事前に露見され主謀者6人が切腹、約50人が処刑された騒動であった。斉彬を推す幕府老中阿部正弘の仲介により、斉興は隠居、斉彬が家督相続となり嘉永4年(1851年)2月に第11代藩主が誕生した。
◎ 仙厳園
この旅の最後に仙厳園を訪れた。薩摩藩国父 主島津久光が別邸として1万5千坪の広大な敷地に桜島を築山に錦江湾を池に見立てスケールの大きな庭園を築造した。歴代藩主が「迎賓館《としても活用されていた。NHKTV大河ドラマ「篤姫《の中で要所要所が撮影されていた。今は吊勝庭園として島津家が管理して公開されている。
◎ 鹿児島の風土と郷土文化
振り返って、鹿児島は桜島、霧島、開聞岳と周囲が活火山に囲まれ領土の6割がシラスに覆われた厳しい土地柄に、中央から遠く離れ外城制度(とじょう)を設け外敵を防衛してきた英知は薩摩隼人という多くの人材を生んで独特の風土を造ったと思う。
もう一つは、歴史資料館などに多くの資料が整備保存され、郷土文化を築き上げ継承していることに感心した。
◎ 幕末の薩摩藩の人間関係
島津斉彬と西郷隆盛の師弟愛、島津久光と大久保利通の君臣上下関係、更に島津久光と西郷隆盛の嫌悪感情、西郷隆盛と大久保利通の共助と対立関係は正に真実のドラマとして歴史の中で演じられていた。
島津斉彬を祭る照国神社と西郷隆盛の銅像や諸遺跡の陰に島津久光や大久保利通の像があり、鹿児島の人は前者二人を敬愛していることが分かった。
 
 

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