高野山・熊野古道の旅…・冥途への挨拶
平成27年11月吉日 山 下 永 二
「何処へ行きましたか」と問われ「高野山と熊野三山を訪ねて冥途へ挨拶してきました」と答えると「そんなお歳ですか」
と返ってくる。我々は、高齢者の真っただ中にいることをあらためて認識した。高野山と熊野三山は、
平成十六年に「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録された。
しかも高野山は、開創1200年という記念すべき節目の年だった。
今回、坂下君が予てから希望していた熊野古道の旅を企画することになった。熊野へのアプローチは、
古代から伊勢路、紀伊路、大辺路、中辺路、小辺路と多様なコースがあった。
高野山を経由して熊野三山へお参りしようと少し欲張った旅の企画だったため、
二転三転してフリープランの旅がやっと出来るようになった。
旅程は10月19日〜21日の2泊3日でいつものメンバーの7名で出かけた。
1 第1日(10月19日) : 宗教都市 高野山へ
羽田09:00発 ANAで関空へ飛んだ。到着後ジャンボタクシーで高野山へ向った。
12:30ごろ昼食のレストラン「花菱」へ予定より1時間早めに着いた。
「花菱」は、江戸時代から奥之院御用達の精進料理専門の老舗食堂で行列を作っていた。
高野山は、言うまでもなく空海が、
平安末今から1200年前に嵯峨天皇から下賜されて唐から教授した真言密教の根本道場として切り開いた。
ドライバーの話によると人口約二千人で、保育園から、小、中、高、大学、専門学校等の教育機関、
役場、消防、銀行、診療所、コンビニに至るまでがあり、多くの寺院と混在して宗教都市を形成しているという。
標高900mぐらいの高野山に着いて山に来たという感じがしない。
この山中で比較的平な盆地に寺院を造り長い歴史を経て聖地として発展し、
賑わいのある現在の街が出来上がったのだろう。
◎ 聖地と娑婆が混在した宗教観
昨年訪れた比叡山は、厳粛な山岳信仰を行う聖地で聖と俗を明確に区分していた。
これに比し、高野山は、同じ山岳験修道でありながら、聖地と娑婆が混在した共存の社会を築いていた。
宗教的に異質なものでも対立することなく、融合し、同化していく教えが空海の本懐だったろう。
陽と陰の関係というか、空海と最澄の宗教思想の相違が表現されているように感じた。
◎ 近道を使って奥之院へ参拝
高野山から古道を通って熊野本宮大社へ向い、近くの川湯温泉宿へ到着するには、夜遅くなるとドライバーは心配し、
時間を短縮するため秘策をやってのけた。
食後、周辺寺院を見学し奥之院まで歩いて行けば、2〜3時間は有に経るところを、
従業員のみが通過できる専用道路を車で走って時間を約2時間短縮した。奥之院へ着いたのは、
午後1時半だった。奥之院は、石畳の参道の両側に樹齢数百年と思われる杉の大木がそそり立ち、
御廟の橋のつきあたりに灯籠堂があり更にその奥に空海が入定している御廟があった。
御廟は柵に囲まれ、我々凡人にはお目にかかれなかった。木立のすき間からわずかに陽がさす薄暗い雰囲気のなか、
ローソクの灯りと線香の匂いが漂い、神秘的な聖域に身が引き締まるような気持ちになった。
◎ 川湯温泉への経路
約1時間この聖地を散策して川湯へ向かった。高野山から、熊野三山へ向う古道を「小辺路」というが、
どのコースをとって車が走ったか分からなかった。紀伊地方は昔から「木の国」と言われ、
森林が繁茂する山岳道路をドライバーは、時間を気にしてか相当飛ばしていた。予定より1時間早く、
午後5時頃に川湯温泉宿「冨士屋」へ着いた。
古人は、皆 険しい山道を歩いて熊野権現を参詣したと思うと、現代の我々は、
車で走って苦労もなく楽にお詣するのは申し訳ないというより、神仏の功徳は頂けないなと思った。
宿の前に熊野川の支流、大塔川が流れ、川底から湯が湧き出ていますので入れますと支配人が言った。
川湯温泉という名の由来が分かった。
2 第二日(10月20日) : 熊野三山へ冥途の挨拶
◎ 朝のトイレ談義
私は、後期高齢者の仲間入りした頃から、朝 排便のため三回位トイレへ行く習慣になってしまった。
腸が弱って送り出しが悪くなり、三度の食事を三回に分けて排するようになったと勝手に自分診断している。
旅等朝方に出かける時、早朝に起きて済ませる等排便に工夫しなければならないのが難儀だ。
この日朝、そんなトイレの話をしながら坂下、槇原、山口君と4人で散歩がてら川湯を見に行くことになった。山口君は、トイレにまだ行っていないので躊躇していたが、すぐ近くだからということで同意して出かけた。
川岸の所々に湯がブツブツと湧き出ていた。やや大きめに川石で囲った露天に男女3人の外人が入るところを見かけた。
しばらく川沿いに歩いて吊り橋を渡った処に公衆トイレがあった。
丁度便を催したい時だったので、覗いてみてビックリした。中は広く、
最新の電動自動式ウォシュレット便器で温水も出、自動排水になっていて、我が家より立派なトイレが設置されていた。
然もチャイルドシートやシャワーまで備えていた。公衆トイレといえば汚いというイメージがあったが、
この片田舎の山中でこんな最新のトイレがあるとは、思いもしなかった。
最近外国人旅行者が日本のトイレはきれいだと誉めていた気持ちが分った。
◎ 山岳宗教のメッカ熊野三山へ参詣
三山めぐりは、勝浦駅から勝浦駅へ戻る巡回観光バスがあり、宿の前で乗車し熊野本宮大社、熊野速玉大社、
那智の大滝、那智大社、青岸渡寺の順に参詣した。
道路は、一車線でやっとバスが通過できるほど狭く、対向車が来たらどうするのだろうと思った。
幸いに車は少なく、地元の軽自動車とたまに交差する程度だった。
運転手は50歳半ば位で、時々ビデオを流しつつ、観光案内をしながら器用に運転をしていた。
バスガイドが説明するのが普通だが、人件費の削減だろうか、ガイド兼務の運転手の苦労が思いやられた。
・ 水害に覆われて避難した熊野本宮大社
熊野本宮大社は、熊野川の中洲にあったが明治時代に大水害にあって現在の高台に移転したという。
神様も水害には勝てないのだなと思った。158段の参道をのぼると、横長の三つの神殿が見えた。
中央に阿弥陀如来を本尊とする神殿が位置し、左側に天照大御神、
右側に那智の薬師如来と速玉の千手観音を祭神とする社殿が横並び建てられていた。
社殿の屋根の千木を見ると、主祭神 阿弥陀如来が正面に位置し、
両側の神が中央に向かって横向きに神殿が建てられているように見えた。
熊野権現の中でも格上の権威を表わしているのだろう。
白河上皇が熊野本宮大社を初めて熊野御幸してから、浄土信仰の高まりとともに貴族、
武士、庶民と拡がり熊野三山の参詣が盛んになったと言われている。
・ 朱塗りの派手な熊野速玉大社
熊野川の河口近くに鎮座した神宮で、熊野権現の中で薬師如来を崇められている。
平安時代は、本宮から熊野川を舟で下り、速玉大社へ、更に那智大社を参詣したという。
熊野古道を体験的に一部歩いてみたが、石畳の階段を登るだけでも、相当困難な山岳路と認識した。
高野山から熊野本宮大社へは山岳の石がゴロゴロした凹凸の山道を通ってきた苦労を思うと、
舟で下って速玉大社へ参詣する時はホットした快適な気持ちになっただろうと想像した。
・ 神となった那智の大滝
神武天皇の東征の時、この大滝を見つけ神として祀ったという。
紀伊の原始林に包まれた中から133mの断崖から落ちる流爆が、
古代から絶えることなく現在まで休むことなく続いていると思うと自然を超越した何かを感じさせる。
100円玉のお賽銭で滝壺から引いた延命長寿の水を白い杯で頂いた。
・ 神と仏が仲良しの見本となった那智大社と青岸渡寺
神武天皇の東征の時、この大滝を見つけ神として祀ったという。
紀伊の原始林に包まれた中から133mの断崖から落ちる流爆が、
古代から絶えることなく現在まで休むことなく続いていると思うと自然を超越した何かを感じさせる。
100円玉のお賽銭で滝壺から引いた延命長寿の水を白い杯で頂いた。
・ 神と仏が仲良しの見本となった那智大社と
最後の那智大社へは、四国の金毘羅さんの半分ぐらいの480段位ある石畳の階段を登ることになるが、
出発する時 店から借りた杖が役に立った。
頂上が見えない迷路の中に入ったように50段位上がると出店があり又更に右に曲がって階段を上がると出店にぶつかる。
もう着いたと思ったら、また左に曲がって昇る仕組みになっているため疲れが倍増し汗をかいた。
登りつめたとろに速玉大社と同じ朱塗りの社殿があった。千手観音が祀られているという。
すぐ隣に、西国観音霊場の一番札所として信仰を集めている青岸渡寺という寺社があった。
古代に日本古来の神道を主張する物部氏と外来仏教を主張する蘇我氏が宗教戦争をして、
蘇我氏が制覇して仏教が認められた。
平安時代になると神仏習合という宗教改革によって、神と仏が一体になった。
隣接した那智大社と青岸渡寺がその見本を見せているように思った。
その境内の広場から先程お参りしたばかりの那智の大滝が望めた。
・ 独特な趣向に凝ったホテルの洞窟温泉へ入浴
那智大社のお参りを済ませ、勝浦港を前にした宿「万清楼」に着いたのが午後4時頃だった。
この宿の海の向い側に、「ホテル浦島」という趣向の変わった独特のホテルがあった。
槙原君は、3年位前に泊まったことがあるというので、彼に案内してもらい二人で出かけ、
宿の前から連絡船に乗って10分位で着いた。
ホテルは、海岸縁と小高い丘を利用して宿泊施設と多様な温泉を取り入れて楽しめるような設備を整えていた。
いわば、超大型のヘルスセンターという感じだった。
その中の一つ「忘帰洞」という海岸洞窟温泉に入った。
海岸からゴウゴウと波が押し寄せる音が豪快に響く中、温泉が湧いていくつもの湯風呂があった。
最初は、小さな岩と岩をつないで洞窟を造っているのではないかと思ったが、従業員に聞いたら、
本当の洞窟で安全のため二本の支柱で支えているという。
源泉は、男脱衣場の中央にあり、これから一旦湯槽にため各所に配湯しているそうだ。
このようなアイディアを凝らす人はきっと漁業者かなと思ったが、社長は、林業で、財をなし、
この海岸に豪邸を建てたが、あきたらずこのようなホテルに拡張していったという。
3 第三日(10月21日) : 補陀落山寺…海南の果てに観音浄土へ拾身した上人の古寺
「補陀落」とは、日本語に馴染まない言葉で、
サンスクリット語「ホダラカ」を漢字表現した当字で観音浄土を意味するそうだ。
この古寺は、天台宗というから最澄派だ。補陀落山寺も世界遺産の中に入っている。
境内には、渡海舟の復元模型が展示され、裏山には、渡海した人のお墓が数段に並んでいた。
◎ 「補陀落渡海」とは、一体何だろうと思って調べてみた。
南海の果てに観音菩薩の浄土があると信じて、そこに往生を願い、わずかな食糧と水を積んだ小舟に閉じ込められ、
沖に向かって、自らを犠牲に人々の苦しみを救う拾身行である。
数は少ないが、四国の足摺岬、室戸岬、山形の月山にもあったそうで、当時疫病、災害、
飢餓などに苦しむ人々が浄土信仰へ熱狂的に傾いていったであろうと推察される。
古来 葬法の一つに「水葬」があり、中世 浄土信仰の「入水往生」へ変化していったという。
インドでは、今でもガンジス川のほとりで死を待ち、死後遺体を川に流す水葬が行われていると聞く。
熊野には、昔 熊野水軍という強力な海軍力を誇って源平合戦では、源氏に与し戦勲をあげた歴史がある。
従って、熊野灘における海上浄土信仰が必然的に芽生えたであろう。
◎ 帰りは新幹線で東京へ
午後12時半ごろ、勝浦から特急で名古屋へ乗った。東京へ新幹線「ひかり」に乗った。
車体は、新型らしく車体幅が広く、座席の前後もゆったりした感じだった。
出発して間もなく、男女共用の大きなトイレに入ってみた。ここでも先の公衆トイレと同じように、
比較的広く、チャイルドシートもあり自動式トイレで最新式だった。今までの新幹線に見られなかった。
今 東京オリンピックに向け、トイレ改革が行われているのだろうか。
4 旅の終わりに
◎ 振り返って、伊勢参詣は分かるが、なぜこんな山中の難所にある熊野三山を参詣するのか?
という疑問を持った。
・ 「伊勢・熊野同体論」の否定
古代史は謎が多く、しかも宗教と絡んでいるので難しい。
宗教学者 五井 重氏の「熊野詣」によると、熊野には、イザナミ命の稜があり、
伊勢とは親子関係で結ばれているという「伊勢・熊野同体論」が奈良時代からあったが、著者はこの論を否定した。
伊勢は神道を元祖とし、熊野は古代から死者の霊を籠る死者信仰があり、
僧徒が仏教に帰依した寺社で伊勢神とは異質な宗教観だという。
平安時代になると神に変わって仏が衆生を救う阿弥陀如来を本尊とする熊野権現が熊野三山の祭神となり、
山伏僧徒による独自教団が組織され、熊野別当が管理するようになった。
・ 伊勢路から難関な紀伊路へ詣コースが変った
京都を起点として、熊野へは伊勢路と紀伊路と高野街道がある。
古代では、皇族も庶民も伊勢詣〜熊野詣が一般的なコースであった。
伊勢経由は近くて難所が少なく容易であるが、中世 浄土信仰が広がり、熊野は、阿弥陀如来、
観音如来の信仰が意識されるようになって、浄土教のメッカになった。
そのためメインルートは難関な紀伊路〜中辺路に変わっていったという。
もう一つは、巡礼・巡拝は険峻なルートを選んで苦行をした方が、功徳が大きいと信じられていたという。
熊野信仰は、全国各地に普及し熊野神社は3000社以上ある。佐賀にも44社あるそうだ。
(熊野本宮大社の掲示板にあった)
◎ 古代から中世の熱狂的宗教心を感じた。
当時の世相は、災害特に河川氾濫による水害、地震、疫病特にライ病、天然痘、伝染病、飢餓、
農作物不況等生活に深刻な影響を及ぼし、生死に関る煩悩から逃れられなかったであろう。
生きるより、死を選びあの世に極楽浄土を願う宗教に救い求めたと思う。
現在とは大きく異なる時代格差であるが、宗教心は、深く、熱狂的であったろう。宗教には狂信的な側面があり、
「補陀落渡海」はその一つの事象かもしれない。
写真集
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熊野速玉大社
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熊野本宮大社正面神殿
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熊野本宮大社入口階段前にて
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高野山奥之院 御廟の橋にて
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高野山奥之院入口水かけ地蔵
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青岸渡寺
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川湯温泉の露天風呂
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那智の大滝
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補陀落山寺
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補陀落渡海上人のお墓
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補陀落渡海船
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