京都の旅 ・・・ (比叡山 延暦寺を訪ねて)

平成26年11月15日 山 下 永 二
趣味として各地を旅する人は多いが、私が旅のレポートをHPに記載しているので、旅を趣味と思われているかもしれないが、 当地の歴史や特色を調べたり、お付き合いで仲間と一緒に行くことは楽しく、趣味とは思っていない。 従って独りで旅に行くことはない。今回もそうだった。 私の住んでいる団地にメンバー30人位の「棋友会」という囲碁クラブがあり、そこで週4日囲碁を打っている。 その仲間に元とらやの羊羹で京都に5年勤務したA氏と京都生まれで湘南ボーイの1級建築士のB氏の二人が 10月下旬に京都の旅を企画し6人が参加した。
まず、新幹線 新大阪駅梅田で宝塚に現住している棋友会OBだったC氏と落ち合い、 関西棋院で碁を打ちながら旧交を温めた。 その夜京都のホテルに向い二泊した。
◎日本仏教の母山 比叡山 … 天台宗の総本山 延暦寺へ
比叡山は、標高848mでそう高くはないが、東塔、西塔、横川を合わせて、「三塔十六谷」といわれ、谷は峻嶮で、 最澄が創った延暦寺を中心に多くの僧侶の修験場として名をなした。千日回峰行した阿闍梨は、今も無動寺谷に住んでいるという。
天台宗の基礎を築いた円仁、円珍、浄土宗開祖 法然、浄土真宗 開祖親鸞、曹洞宗開祖 道元、 日蓮宗開祖 日蓮など日本仏教史上著名な僧がここで修行して輩出している。1994年に世界遺産に登録された。
翌朝、山背方面からケーブルとロープウエイに乗って、比叡山へ向い近江へ降りる通常と逆のコースを辿った。 京都から登るロープウエイの角度は70度という日本ではどこにもない急斜面だという。 奈良時代、近江は、奈良の都に近いので、「近江」といい、 京都は、奈良京からみて山の裏にあるから「山背」と昔の人は考えたという。
比叡山を登るのは近江からが正道であって、当時京都は、原生林でこの方面から登ることは、この険峻さからみて無理だったろう。
頂上は小雨で、琵琶湖が微かに展望できる程度だった。そこから少し降って、延暦寺へ行った。 大講堂のすぐ横に大きな鐘があり、旅人が時折ボーンと鳴らしていた。これは、昔僧兵を招集する時の警笛鐘だという。
鐘の傍をすぐ降りたところに延暦寺の中核たる根本中堂があり、本尊の薬師如来が祀られていた。 身延山 久遠寺では撮影出来たが、ここでは禁止されていたのが残念だった。
この旅に出る前に、司馬遼太郎の「叡山の諸道」を読んだ。
◎最澄という人
天台宗の開祖 最澄は、767年 滋賀県坂本の生源寺で生まれた。この地方は、古代に渡来人秦氏一族が住み着いたらしく、 最澄も東漢人の僧侶の子として成長した。
14歳で得度し、最澄と名のった。奈良仏教に決別し19歳の時、比叡山で山林修行し、 788年、薬師如来を本尊とする一乗止観院を建立。東大寺より戒壇をうける。
戒壇とは、僧侶としての高等官試験のようなもので、官僧として認められた。
804年7月(38歳の時)桓武天皇の勅命により、空海と同じく入唐、天台教学を学び、1年後に帰国した。 806年日本天台宗を開宗した。822年6月享年56歳で没。この間、奈良の南都六宗と宗教論争を展開。 866年、清和天皇より、伝教大師の諡号(しごう)が贈られた。
◎最澄と空海の関係が面白い
最澄は、空海より7歳上で、804年の第16次遣唐使留学僧として初めて出会った。
当時の遣唐使は命懸けであったようで、4隻が九州博多から唐へ向かい、唐に着いたのは、先頭の2隻で、 後の2隻は途中で難破した。空海は第一船に第二船に最澄が乗っていたというから、この二人は運が良かったと言えよう。 神を信じる人は運も味方につけるのだろう。福建省の港を目指していたが、最澄の船と空海の船はそれぞれ別の処に漂着して、 最澄は、明州の天台山に学び、空海は、長安へ行き先も異なった。
最澄は、官僧であったので通訳付きの官費で1年間の留学だったが、空海は、私度僧のため、私費で期間も20年であったが、 実際は2年で帰国している。
空海は、長安で密教の師 恵果和尚に認められ、みっちり学んで帰国している。
帰国後、最澄は、天台宗という大乗仏教のシステムを叡山で育成した。 空海は、20年の予定を2年で帰国したため、許可がおりるまで大宰府で滞在した。 嵯峨天皇が即位して、最澄の尽力もあって上京が許された。空海は、その後高野山を下賜され、真言密教を広めていく。 この間、最澄は、密教の学びが未熟だったため、空海に密教資料の借用を求めるが、 口伝による修行であって文章修行ではないと拒否された。
この二人が天台宗と真言宗の「平安二宗」として、日本仏教の基礎を築いてきたことは知れている通りである。
「密教」とは、一言で表現すれば、選ばれた人(出家)のみ秘儀が伝授された宗教をいう。 当時はこの密教が最先端を行く宗教であった。
◎最澄と南都六宗の論争は?
奈良仏教は、六宗に分派し、宗教教理の研究が中心であり、究極目的とする解脱に関する具体性に乏しく、 インド原始仏教の時代に生きていたカースト制度の影響が残っている「差別」に欠陥があると最澄は指摘したという。 最澄の考える大乗仏教の平等思想、つまり「山川草木悉皆成仏」という日本仏教の考えと対立して論争された。
◎信長はなぜ比叡山 延暦寺を焼き討ちしたか?
11年続いた応仁の乱後、治安が悪化し宗教勢力も武力を強めていった。 民衆へ宗教が普及していくに従って、禅宗や天台宗との争い、日蓮宗の過激な宗教活動など宗派間の宗教戦争も度々おこり、 石山本願寺など強固な組織ができ一向一揆など各地で守護大名を脅かすまでになった。そこに戦国時代になって、 織田信長が「天下布武」を掲げ、宗教勢力の武装解除を求めて徹底抗戦した。
1571年9月12日、浅井・朝倉連合軍と戦った姉川の役で勝利した信長は、その一部が比叡山に立ち籠ったため、 これと一体となっている僧兵の他、婦女子を含めて約4000人を皆殺し、仏教施設も焼きつくした。 この時、信長は、近江 三井寺に本陣を置いて、坂本から明智光秀の軍勢を主力とし攻め込んだ。 秀吉は、横川で残党を待ち受けしていたという。当初光秀は、殺戮には反対したが、信長の命には従わざるを得なかったようだ。 後に光秀は、近江の領地をもらい坂本に城を築いた。 この時までは、信長の光秀に対する信頼は厚かったのであろう。
京都はバスが縦横に循環して走っており、どこに行くにもバスを利用すると便利になっている。
時間に余裕があったので、高台寺と銀閣寺を訪ねた。
◎秀吉の妻「ねね」を祀る高台寺
高台寺は、家康の政治的配慮もあって多大な財政的支援を受けて作られている。 霊屋、開山堂、庭園など重要文化財に指定されている。北政所は、後陽成天皇より高台院の号を賜り、76歳で没した。
◎銀閣寺を造営した室町幕府第八代将軍 足利義政という男
東山でバスを降りると、哲学の道と銀閣寺方向の分岐点があり、左方向の登り坂を15分位登ると銀閣寺に着いた。
銀閣寺は、臨済宗の禅寺で室町幕府八代将軍足利義政が、三代義満にならい東山に慈照寺を造営した。 銀閣寺は、金閣寺に対する俗称で呼ばれ、東山文化の発祥の地というのが歴史の表である。
義政という男の実像は、弟義視と嫡男義尚の後継者争いに何ら決断せず、政治的には優柔不断だった。 これをきっかけに応仁の乱へ発展し、守護大名が東西に分かれ、後継者争いという名の所領争いが、 11年も続いて京の都は荒れに荒れた。将軍職という政治権力を放棄して、 権力欲と金銭に強欲な日本一悪妻と言われた日野富子と嫡男義尚に任せた。 応仁の乱により、政治が不安定になっているなか、世の中は更に大飢饉に見舞われ混乱をしている時に、 隠居するための東山殿を造ることに精励し、自分は芸術の趣味にあけくれ、遊楽の日々を送っていたという。なんという男だろう。
反面、義政は芸術家肌で文化的才覚は優れていたというから、人生は分からないものだ。将軍の無責任な行為の結果として、 幸運にも東山文化を築いたというのが歴史の裏側である。
素質があろうが無かろうが、世襲で将軍になるから、こうゆう封建社会の悲劇を生むのだろう。
◎夕餉の宴
この日の夕食は、今出川の「萬重」という京都風の割烹で行われた。奥まった大きな部屋で6人は、酒を酌み交わしながら、 京都料理を味わった。暫らくして、舞妓と芸者が入ってきて、お酌をしてくれた。舞妓の名は、「市まり」といい、芸者は、 「勝也」と名のった。芸者がひく三味線のピン、シャン、シャンのリズムに乗り、 まだ幼さを感じさせる舞妓は一生懸命に舞踊した。舞妓は、6年間女将のもとで芸や舞踊など作法を修錬しその後、 二十歳位で芸者として独立し活動できるようになると言った。 舞妓市まりは、尾道出身で京都の芸者にあこがれて上七軒(芸者の町)に来たという。 勝也は、京都生まれで、父親の転勤で、福岡、東京、大阪等転々したが結局京都が忘れられず、 舞い戻って芸者になったという。現在は、市内のマンションに一人で住み、 時にはニューヨークなど外国旅行にも出かけると言うから、相当の売っ妓芸者と見た。 結婚する気はあるかと聞いたら、少しはあると応えたがなんのそのパトロンがついている30歳前後で今が盛りの芸妓だと見えた。
舞妓と芸者は、映画やTVでみた事はあるが、現実に芸を見たのは初めての経験だったので、 好奇心旺盛に色々な問かけをしてみた。寺社では撮影禁止が多かったので、 恐る恐る写真を撮ってよいかと聞いたら結構ですとボーズもとってくれたので、遠慮なくシャッターを切った。
◎翌日「錦市場」を見学した。
錦天満宮から約400mをまっすぐ120軒以上の店が連なる商店市場で、 江戸時代初期から始まったというから長い歴史を今日まで伝承してきたものだと感心した。 京都は戦災を免れたからかも知れない。豆腐や京漬物等京都らしい食材がびっしり密集した店に並べられていた。 時に注目したのは、松茸が一本3万円から安いので2千円位が店に並べられていた。丹波で採れるという。 大きな焼き栗が美味しそうに口を開いていた。京都名物の千枚漬は、もう少ししたら出ますと店の人は言っていた。
◎ 京都へは4回目だが、古代史を学び10回位行かないと奥が深くてなかなか分からない。 いつもは、観光バスで大まかに要所を回るので、本当の京都を理解していなかったが、 今回は、熟知している仲間の案内で市内循環バスに乗って寺社を観たり、錦市場近くのホテルに宿泊したせいか、 河原町三条付近を散策したり、よく歩いたので少しは分かってきたように思う。 京都の街は、メイン道路は広く、そのメインを少し中に入ると、急に道路が狭く、路地に民家や店が連なっている感じがした。
舞妓と芸者さんとの夕餉は貴重な体験だった。
写真集
  
延暦寺根本中堂
 
  
舞妓市まりのおさな顔
 
  
芸者勝也
 
  
芸者勝也のおちょこ酒
 
  
市まり扇子立ち踊り
 
  
市まり膝立ち踊り
 
  
舞妓両手開き姿
 
  
三味線と舞妓の斜め姿
 
  
三味線と市まり袖あげ姿
 
  
勝也と市まりの舞踊終了挨拶
 
  
高台寺
 
  
高台寺正面入り口
 
  
ねねの茶室
 
  
美女の背の銀閣寺
 
  
庭園から観る銀閣寺
 
 
 
 
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