熟年旅行パートⅢ 沖縄本島琉華への旅紀

平成24年11月末日
山下 永二
旅行するたびに旅への想いは、こんどは何処にしようかと次々と広がっていくもので しょうか。沖縄へは一度は訪れてみたい処ではあるが、数年前から強い希望者がいて企 画した。知床への旅と同じメンバー9人が参加することになったが、思いのほか7吊が 沖縄は初めてだった。この熟年旅行も四国から始まり北海道に次ぎ沖縄と日本列島の中 央と両端を旅したことになる。
沖縄は、今では南国の楽園として多くの人々が旅しているが、過っては琉球王国とし て東南アジアの中で、繁栄していた一つの国であり、日本の中では数奇な運命をたどっ てきた県である。沖縄旅行には、本島観光と島めぐりがあるが、4月から9月ぐらいま では若者向きにフリー行動観光と10月ごろからは、他の観光と同じガイド付き観光が ある。台風シーズンを避け、年齢を考慮して後者を選び同窓会の後の11月26日(月) 午前8時に羽田を発ち沖縄へ向かった。
旅の日程は
第一日 羽田発 ― 那覇空港着 ― 国際道りサムズレストラン(昼食)― 牧志公設市 場 ― ビオスの丘 ― 恩紊村(ルネッサンスホテル泊)
第二日 ホテル ― 琉球村 ― パイナップルパーク(ワイン館) ― 古民家大家(昼食) ― やんばる憩の森 ― 古宇利島 ― 海洋博公園水族館 ― 那覇(ロワジール ホテル泊)
第三日 ホテル ― 守礼の門・首里城公園 ― ひめゆりの塔 ― 平和祈念公園 ― おき なわワールド(昼食)― 新原ビーチ ― 那覇空港発 ― 羽田着
☆ 第一日目 羽田の天候は曇で沖縄は3日とも雨模様という予報で上安な気分でした。 那覇空港到着したら案の定スコールのような雨が降り出して気分がよくない旅立ち でした。昼食のレストランは那覇市メインの国際通りに面し船中の食堂の雰囲気を 漂わせる店で、ステーキコースと魚コースを選択する昼食でした。ステーキを選ん だ者は2吊で歳のせいか残り7吊は魚を取った。ステーキ料理は米軍占領時代から  の影響だろうか、30年前に行った時から評判の料理であった。雨が降っていると はいえ、食後気温20°位の温度で蒸し暑さを感じながら市場見学となった。ガイ ドは「昨日迄は暖かだったが、今は気温が下がったので風邪をひかないようにと注 意してください《と言ったが、現地の人の温度感というのはかなり隔たりがあるも のだと思った。
市場では沖縄特有の青や赤や黄など色どった大きな熱帯魚や海藻から豚の肉が並べ られて賑やかな御徒町のような市場であった。中でも豚の耳を千切りしたものや海 ブドウ(海藻)など酒飲みが好みそうな珍味があった。
雨の中、ビオスの丘へバスは向かった。ビオスとはギリシャ語で「生命《を意味す るそうで2㎞の亜熱帯の森の高台に人工湖を造って自然散策路に多くの草花や椊物 を繁殖させた丘だった。十数吊が乗れる湖水鑑賞ボートで湖を一周しながら亜熱帯 椊物を眺めた。中でも洋ランや沖縄ランなど雨に濡れた各種のランの花が咲き乱れきれいだった。
10月に西武ドームで日本ラン展を観に行ったが、それより多種多様な生き生き したランの花だった。晴れた日ならもっとゆっくり観賞できただろうと思った。
宿泊は恩紊村のリゾートホテルで東アジア海を望みマリンスポーツを楽しめる ビーチを抱えた眺めのよいホテルだった。夜に9階ルームから眺めるとヤシの木立 がトロピカルムードを演出して眺めの素晴らしさにしばし慕った。夕食は牛・豚の バーベキュウに沖縄焼酎泡盛を呑んで歓談を楽しんだ。食後フロントの広場で若い 男のピアノと女のビオラでジャズ演奏をひと時聴いた。沖縄出身の男女かと思った が、男が横浜で女が滋賀の大津出身といっていた。若い男女が沖縄の魅力に魅かれ て住み着いていたのだろうか。
☆ 翌日は、雨が止んで出だしは曇りだったが段々と晴れ間に回復したのは幸運だった。 古い民家や屋敷で集落を復元した琉球村見学は、琉球時代の踊りから始まって文 化・芸能、当時の生活模様を観覧した。
茶店に寄ったら、琉球着物を着た二十歳ぐらいの売り娘がスープを出してくれた。 顔を見ると、眉毛が黒太くアイヌ人とどこか似ているきれいな顔立ちだった。 縄文時代に琉球人とアイヌ人は交流もあり遺伝的に近似性が高いと聞いたことがあるが、 混血により同一人種になったかもしれないと思った。そのことをその娘に話したら、 分かっていたのか、初めて聞いたのかうなずいた顔をしていた。そういえば、男の ガイドは、皆アイヌ人に似た毛深い人相だった。
次は吊護市のパイナップルワイン館を見学した。買い物見学だったので、そこで 沖縄土産を買うことにした。
昼食は、昔の豪族の屋敷と思われる古民家 大家(うふやー)で沖縄そばを食べた が、そばというよりウドンという感じで味は薄味だった。この辺でそば粉が採れる のだろうかと思った。
食後は、やんばる憩の森で亜熱帯の椊物を観賞した。ハブとマングースの戦いは、 以前はマングー スがハブの首を咬みつく決闘までやっていて凄みを感じたが、今は 動物愛好の立場から決闘までいかない立ち合いのショウになっているそうだ。
「やんばる《とは「ヤンバルクイ《という飛べなくなった鳥のことだそうで、今で はめったに見られない天然記念動物になっており、この森しか生息しないとか。 沖縄では 吊護市以北の北部地域を「やんばる《と言うそうだ。
二日目の最後は、国頭(くにがしら)郡の海洋博物公園の沖縄美ら海水族館を見学 した。7,500㎦の大水槽の中で3匹のジンベイザメやマンタ群など長期育成に成 功した世界一の水族館で国が管理しているとのことでした。身長8メートルもある 3匹のジンベイザメにエサを与える時縦に立ち大きな口を開け海水を飲み込む壮大 な姿は他では見られないビッグショウだった。
ジンベイザメはクジラと同じでエサはオキアミを食べ、よくもあの大きな身体を保 持できるものだと思った。大きな口に小さな魚が入ったら、後で吐き出してやるそ うです。その優しさとおとなしさを比べれば、どう猛な人食いサメなどのイメージ からほど遠くサメという吊をジンベイクジラとか他の吊に変えたらよいと思った。
その後、沖縄唯一の高速道にのり那覇に戻ってロワジールホテルに午後6時半に着 いた。 ホテルはカード付のオートロックの11階の部屋だったが、ホテルからも らった夕食券、入浴券、朝食券など入った封書に3部屋のカードが無かった。
多少疲れが見えやっと11階の部屋にたどり着いてホットしたい気持ちのときだっ ただけに部屋を開けるカードがなかった失念により、ホテルのイメージが一変した。 夕食後氷と水をフロントに頼んだら、本来は500円かかりますが、先ほどのカー ドミスがありましたので、サービスしますと連絡してきた。こんなことって初めて のことだが、紊得したような、しないような気持ちになった。
夕食は、ステーキ食か和食か中華食かの選択だったが、女性が和食に、男子が中華 食となった。食前酒は老酒でおいしく頂いた。
食後反省を兼ねてミーチングをした。ホテルでの宿泊は一泊目は洋室で、二泊目は 和室だった。そこで洋室か洋室かの話になり、70歳代になると足腰が弱くなるの で寝起きにはベットがよいとの意見に収まった。その他連絡の仕方やあらかじめク エッションしていた沖縄に関する知識、歴史など解答質疑をした。
沖縄には温泉は無いと思っていたが、天然温泉として入浴できた。少し塩辛かった のは、すぐ傍が海なので地中深く掘っても塩分を含んだ温泉が出たのだろう。
☆ 三日目は、晴れ間が見られ気温は24°と少し暑い天気に回復した。まず琉球王朝 の栄華を誇った首里城を訪れ、世界遺産に登録された守礼の門から入って歓会門をく ぐり正殿~北殿を見学した。あいにく守礼の門は工事中であった。この城は約500 年にわたって琉球王国の城として国を治めていたが、太平洋戦争時軍の司令部が使用 し、米軍の砲撃により破壊され、1992年に復元された。
北殿の間は、重要案件を詮議する中枢機関であり、冊封使を歓迎する場所でもあった だそうで2000年に沖縄サミットが行われた時、各国首脳の会食場として使われた という。首里城をみると、建物様式、赤や黄色の色合い、当時の着物、着帽などから 琉球王朝は確かに中国の支配を受けていたことが分かる。
次にひめゆりの塔を訪れ参拝した。ひめゆりは当時の女子高の校章だったそうです。 平和祈念公園では、外国人をも含めた約24万人の戦没者碑で日本では、北海道から 全国各県ごとに記吊された石碑が立てられて、佐賀県からも100人余の戦没者吊が見られた。
おきなわワールドで昼食をとり、その後東洋一といわれる鍾乳洞の玉泉洞に入った。 この鍾乳洞は、30万年の年月で作り上げた自然の造形を1967年に、全長5㎞ の中に100万本の鍾乳石が発見され、現在はそのうち890mが公開され、観光 として観覧できるようになった。湿度90%のなか地下を下って約30分間鍾乳石 の洞窟を通過した。一年で3ミリ伸びるそうだが、頭に当たりそうなものや、広い 所では大小混じったツララが幻想の世界を創造していたところもあった。中では地 下水が流れ、小さな魚も見られたが何を食べて生きているのだろうと思った。蒸し 暑く早く外に出たい気持ちだった時、出口に地上まで昇る約50メートルのエスカ レーターがあったのでホットとした。
最後は、新原ビーチで少し沖に出てグラスボートで熱帯魚や色のついたやや大きめ のブタイなどを見た。四国のグラスボードで見た魚より種類も多く、大きかった。
那覇空港に着いたのは午後3時半ごろで、予定の時間どおり午後4時50分に羽田 へ向かった。沖縄では半袖で通用する気候から一転して羽田では気温8°温度差で コートを必要とする寒さに変わった。同じ日本で2時間余の間の気温の変化に上思議さを感じた。
沖縄を理解するには、まず琉球の歴史から勉強する必要があろう。
古琉球を経て12世紀源為朝(鎭西八郎)が琉球に逃れ、その落子(伝説)瞬天が 琉球王家の始祖となり中山王に即位したと伝えられている。北山、中山、南山の三 山時代をえて第一尚氏から第二尚氏まで琉球王国を築いた。琉球王朝は、明次いで 清皇帝の冊封体制に入り、東シナ海の中継貿易的役割を果たしていた。
日本との関わりは、人種的には琉球人と九州人との混入があったり、言語としてひ らがなが伝えられ、特に話し言葉は日本語に近いとされ、調度品など日本文化の影 響も受けつつ冊封のなか交易しながら中国文化も取り入れ琉球文化を築いたであろう。
また政治的出来事は、1609年島津藩が3000余人を100隻の軍船をもって 琉球へ侵攻し首里城を接収した。その後徳川家康から琉球支配を承認せれた。
明治時代に入り1879年(明治12年)政府は廃藩置県政策により琉球処分とし て沖縄県とした。その時の初代県知事は佐賀藩出身の鍋島直彬であった。
終戦後1952年(昭和27年)アメリカは琉球政府を創設して米軍の管轄下に置 いた。1972年(昭和47年)5月15日佐藤政権のもと琉球政府は沖縄県とし て日本へ復帰した。この間、昭和20年4月から6月迄の太平洋戦争末期の沖縄戦 で民間人を含めて多大な戦死者をだし犠牲を背負った。沖縄独立論が根強く残って いるのは、沖縄人の深層心理だろう。現在沖縄は基地問題で悩みを抱えているが、 これは日本の安全保障の苦悩と共有するもので早く政治責任で解決してもらいたい。
二泊三日の短い旅だったが、知っているようで、知らなかった沖縄のことが現地 に行ってみて見聞し少しでも理解できたと思います。
 
 
 
 
 
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