記念艦の中に飾られていた写真。
「連合艦隊司令部」という見出しがあり、前列中央「司令官東郷平八郎大将」、向かってその左「参謀長加藤友三郎少将」、
前列右端「参謀秋山真之中佐」などとあった。
また、艦内のビデオ室では、日本海海戦の説明をしていた。
それによると、その海戦のポイントは、如何にしてバルチック艦隊を発見・捕捉するかであったそうだ。
その件は、ネットの ウイキペディアから抜粋すると次のようになる。
1905年(明治38年)5月14日、バルチック艦隊はカムラン湾を出港した。連合艦隊はバルチック艦隊が5月19日にバシー海峡を通過したという情報を得たが、
以降は所在がつかめなくなった。このときバルチック艦隊は長時間の演習や石炭の積み込み、さらには1隻の機関不調に時間を取られていたのだが、
連合艦隊ではバルチック艦隊が太平洋から北海道へ向かった可能性も想定せざるを得なくなり、次第に焦り始めていた。
24日に至り、東郷は大本営に対して北海道への移動をほのめかす電報を送っている。
大本営は慎重を期す旨の返電を送り、東郷は5月26日正午までに移動すると返電を重ねた。
26日午前零時過ぎ、バルチック艦隊随伴の石炭運搬船6隻が上海に25日夕方に入港したという情報が大本営に入電した。
運搬船を離脱させたのは、航行距離の長くなる太平洋ルートを通らないことの証明でもあった。
この情報によって連合艦隊は落ち着きを取り戻し、対馬海峡でバルチック艦隊の到着を待った。
もし運搬船の上海入港が1日遅れていたら、東郷は艦隊を北海道に向けていたかもしれない。
1905年(明治38年)5月27日(海戦1日目)午前2時45分、九州西方海域203地点付近にて、
艦長成川揆大佐指揮の連合艦隊特務艦隊仮装巡洋艦「信濃丸」が汽船(バルチック艦隊の病院船「オリョール」であった)の灯火を夜の海上に視認した。
接近したところ、4時45分突如無灯火航行中の艦影・煤煙を多数視認し、此を無線電信で通報せんとした。「敵艦見ユ」である。
「信濃丸」が夜間に病院船「オリョール」を発見できたのは、バルチック艦隊で1艦だけ「オリョール」が灯火管制を守っていなかったためであった。
この後、甲板に出たところで、海上自衛隊のOBがボランティアでガイドをやっておられたが、
それによると、東郷平八郎大将は身長が152.5cmだったそうだ。でも、司令官としては大業をなされたのだから大きく見える。
でも、それでも人間、どこで待てば敵艦隊を捕捉できるか迷いに迷ったことのようだ。でも、強運の人であったことは間違いない。人知を超えた才能だ。
でも、連合艦隊司令部の中でも、島村速雄少将という方は、「俺(がバルチック艦隊司令官)なら対馬海峡だ」と言い、頑として北海道行きに反対されたとか。
こういう実戦家的センス、大事ではないだろうか。
この方は土佐の出身。詳しく知りたい方は ここをクリックして下さい。
そのウイキペディアでは、「非常な秀才で智謀は底が知れない、軍人には珍しいほど功名主義的な所が無い、生涯はつねに他者に功を譲ることを貫いた、
天性のひろやかな度量のある人物。」などと評されている。
一方、参謀秋山真之中佐は北海道説を採ったそうだ。思うに秀才派かな?聊か神経が細かったかも知れない。
司馬遼太郎の「坂の上の雲」では、大分褒めているが、ここ一番の大勝負ではどうだったかな〜という気がする。
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