北陸への旅 … 熟年旅行パート6

平成28年10月吉日 山 下 永 二
この熟年旅行も最初の四国一周から始まり、今年で第六回になる。 皆の関心がこの北陸地方に集まったのは、北陸新幹線が昨年開通したことが大きく影響したのだろう。
北陸へのアプローチは、新幹線、航空機、その併用の三案を検討するため、数回の会合を重ねた。 旅程 9月27日〜29日(2泊3日)と往復新幹線と決まったのが7月頃だった。 新幹線と航空機を併用すると多彩なプランが出来たのだが、旅行会社に相談したところ、併用案がなかったのが意外だった。
  1. 第一日 9月27日(火)… 加賀百万石の金沢市内観光
    天候は良く気温30度の夏日だった。東京発4名、上野発2名、大宮発3名計9名で北陸新幹線 かがやき505号で金沢へ向った。 GPが談話しながら約2時間で金沢に着いた。 午後から ひがし茶屋街 → 兼六園 → 天徳院 → 武家屋敷の市内観光をした。
    〇 近代化された金沢駅
    まず金沢駅を降り周辺を見まわして、加賀百万石の伝統を継承し近代的に整備された金沢の印象を受けた。 大坂、名古屋方面への北陸本線、能登半島への七尾線、そして新幹線と鉄道交通の要所であり、東口駅前は、 「鼓門・もてなしドーム」によって旧新が表現されている。米国 ウェブでは、「世界で最も美しい駅」の一つに選ばれたという。
    駅構内の「あんと」というお菓子屋中心の商店街があった。お菓子の数では日本一になるほど多いそうだ。 数種類 土産に買ったが確かに美味しかった。
    〇 江戸時代の社交場 花街 ひがし茶屋街
    金沢は、東に犀川と西に浅野川に挟まれて発展している。 加賀藩の政策として区画を行い、浅野川の北岸に、茶屋や芸子を集め社交場として ひがし茶屋街につくり、 対岸にも茶屋街をつくり二つ併せて花街として繁栄したという。今もその古(いにしえ)が残されている城下町を散策した。
    〇 広大な回遊式庭園…兼六園
    水戸 偕楽園、岡山 後楽園、金沢 兼六園を日本三名園といわれている。日本の庭園は、飛鳥時代から始まって、 平安時代は仏教の影響を受け、浄土式庭園、禅宗式庭園へ更に江戸時代は回遊式庭園へ変転したという。 兼六園は、江戸時代 前田家の屋敷の庭を五代藩主が整備したものと伝えられ、その名は、 中国の名園六要素を兼ねていると名づけられた。 庭園に流れる水は、金沢の東北に流れる犀川上流から防災用として整備された辰巳用水から引かれているという。 噴水は、機械を利用したエネルギーを使わずに、池水との落差を利用している。現在は石川県が庭園管理しているようだ。 高齢者の拝観料は、無料だった。
    〇 10年間で8人の子供を産んだ天徳院
    天徳院は、徳川二代将軍秀忠の次女珠姫で、14歳で前田家三代利常の正室となった。 24歳で亡くなるまで10年間で三男五女8人の子供を生んでいる。若いとはいえ、毎年のように出産したら体力が持たなかっただろう。 加賀藩と徳川藩との密接な関係を強めるため、多産に努めたかもしれないが、 側室公認の時代だから命を落とすほどまでなかったろうに。
    〇 メモを読みながら説明するガイド嬢
    十代の若いガイドと思うが、メモ帳を手にマイクを握り説明するガイドは初めて見た。
    高卒だとしても、半年が経過しており、ガイドとしての資格が疑われた。 一生懸命に説明しているので可愛げはあるが、ガイドが不足しているのか?会社の養成が悪いのか?
    〇 聞いたことがない珍しい郷土料理で会食
    浅野川の畔に小料理屋や割烹が並んで料亭街をつくっている。夕食は、深町君の知合いが経営する割烹 「魚常」で会食した。
    金沢の代表的な郷土料理 「じぶ煮」をいただいた。 「じぶ煮」は、鴨肉と金沢特産の「すだれ麩(フ)」を濃く味付けて煮たもので、 鍋の中でじぶじぶ音を立てて煮るなど名前の由来は諸説あるらしい。 「じぶ煮」といい「すだれ麩」といい 聞き慣れない珍しい料理だった。
  2. 第二日9月28日(水)… 雨の中で幸運な能登半島観光
    企画段階では、和倉温泉で一泊する計画もあったが、 新幹線利用だと旅程と時程がタイミングが合わないことや名高いホテル「加賀屋」が高額なこともあり却下された。
    〇 朝から雨が降り、絶望的な気持ちだった。能登観光バス「わじま号」に乗った。 ガイドによると北陸地方は、三日に一回は雨が降るようで、外出する時は傘を忘れるなと言われているという。 バスは雨中を走っていたが、輪島塗会館見学時、千枚田観光時、キリコ会館見学時下車する時は、幸いにも雨が止んでくれた。 日本三大朝市の一つ輪島朝市が定休日で見られなかったのが残念だった。
    〇 これって世界遺産?… 千枚田の棚田
    能登半島を北へ走る国道と日本海との僅かな崖地に作られた棚田である。こんなところが観光になるのかと思った。 2011年に世界農業遺産に登録されたという。この棚田は、生産・収穫が目的ではなく、稲の育成を研究することらしい。 ほとんど稲刈りが終わった後だったが、地元農業高校生が支援しているという。
    環境省の現地看板に、小泉純一郎と小泉進次郎親子や安倍総理の昭恵夫人等が一坪地主として名を連れて掲載されていた。
    〇 切籠(きりこ)ってなに? 輪島キリコ会館見学
    切籠とは、切籠灯籠をいう。秋祭りの時神輿のお供する巨大な御神灯である。 浄土真宗の正式なお盆のお飾りで、本願寺派と大谷派とは多少異なるという。青森の「ねぶた」も大きいが切籠の大きいものは、 それに匹敵するものがあった。映像を見ると、神輿を倒したり、火で焼いたり祭りの行動はかなり激しい。 この田舎に百人余の若者がよく集まりますねと聞いたら、この祭りを経験すると一人前になるという風習があるので、 都会に行っている若者が必然的に集まるそうだ。 確かに祭りの激しいエネルギーに若者は、興奮して身を投じるだろうなと思った。
    〇 バスでも走る砂の道路 … 千里浜なぎさドライブウエイ
    ここでも雨が止んだので通行出来た。 羽咋市(はくいし)千里浜8kmの砂浜海岸沿いに一般の自動車やバスまでも砂浜の波打ち際を走れる観光道路である。
    この砂浜を車が走れるのは、他より砂がきめ細かいため締まって固まり硬くなるからで、世界でも珍しいらしい。 塩分を取除けば、この砂を建築に使えないかと素人ながら思った。
    〇 薬師如来浄土から因(ちな)んだホテル「瑠璃光」
    午後5時半頃金沢に戻って、北陸本線 特急「サンダーバード」に乗って加賀温泉郷 山代温泉へ向かった。 約30分後に山代温泉随一のホテル「瑠璃光」に着いた。
    「瑠璃」を辞書で調べると、紫がかった紺色の宝石とある。浄土教では、阿弥陀如来の浄土を極楽浄土といい、 薬師如来が求める浄土は瑠璃光浄土という。 この地方は、浄土真宗第八世宗主 蓮如が布教した加賀一向宗の宗教の影響が残っているのだろう。
    このホテルの温泉湯を「薬師湯」というそうだ。
    男女とも各室は、四部屋もあり、室内に灯籠石も置かれていた。 食事は、朝晩とも特別の部屋が用意されテーブル式で中年の仲がいさんが一人サービスしてくれた。 最近の会席料理は、一品ずつ小皿に入れ、数多く出すのが流行りなのか、十種類三十近くの小料理が次から次へと出された。 ここでも「すだれ麩」が一品加わっていた。部屋といい、おもてなしといい、十分過ぎるほどだった。
  3. 第三日 9月29日(木) 宗教と歴史を探索する福井観光
    夜中からの雨は朝まで降り続いた。福井観光は9人乗のジャンボタクシーで行い、 永平寺、朝倉氏遺跡、丸岡城、平泉寺(白山神社)、北の庄城跡、恐竜博物館など盛り沢山考えていたが、雨中を考慮して、 ドライバーと相談した。午前中永平寺へ行き、都合がよければ、一乗谷の朝倉氏遺跡を見学し、 午後東尋坊に寄って金沢に向かうと決めた。
    〇 鎌倉時代から伝承する禅道場 永平寺
    永平寺に着いた頃から雨は上がった。昨日から幸運が付いている。 永平寺には、三度目だがいつも1時間程度では全部を見学できない。 宝物殿の中で、道元が中国へ渡った当時の木造のリックサックが印象に残った。 30インチTV位の大きさで長方形の箱型であった。 これに食糧や衣類等を詰め込んで背中に背負い、船が遭難しても海上に浮上し救助の代わりになるように工夫したのだろ。
    永平寺は、770年前に道元禅師が創建したことは、広く知られている。 道元は、14歳の時比叡山 延暦寺で出家し、その後栄西の臨済宗根本道場 京都の建仁寺に入り明全に弟子入りした。 24歳時、師 明全とともに入宋した。 中国で天童如浄(にょじょう)から「只管打座」(しかんだざ)というひたすら座禅を組む曹洞宗の印可を受けた。 そして4年間の修行の後帰国し日本に曹洞宗を開いた。 道元が44歳の時、越前の地頭 波多野義重の請いにより、この地で永平寺を創建した。 現在、曹洞宗の末寺は1万5千カ寺あるそうで、横浜の鶴見にある総持寺は、永平寺と同格の本山だそうだ。 駒沢大学は曹洞宗の学校である。
    同じ禅宗で栄西の臨済宗と道元の曹洞宗の違いは何だろう?
    平安時代の念仏仏教に対して栄西は、二度入宋し禅問答いわば理屈と座禅の禅宗の思想を日本に伝え臨済宗を開いた。 これに対し道元は、釈迦の座禅の姿そのものを求め、ひたすら座禅をする求道者を追求したと言われている。
    〇 一乗谷に栄えた朝倉家百年の栄枯盛衰
    応仁の乱の下剋上により、越前国守護斯波氏を倒し、但馬(たじま)出の朝倉敏景が越前国守護職に就いた。 峡谷 一乗谷に城を築城し五代 義景まで約百年の繁栄を築いた。 最後は、織田信長の天下布武の勢いに倒され、信長家臣の柴田勝家により、一乗谷城は焼打ちされて朝倉家103年の栄華は露と消えた。
    一乗谷の朝倉氏遺跡を観て、規模の小さい城跡に驚いた。峡谷を利用して敵の侵入を制限し、 九頭竜川の支流一乗谷川沿いの谷あいに城下町をつくり朝倉一大文化圏を築いた。 最盛期は人口一万人を超えたという。将軍になる前の足利義昭や明智光秀も滞在したという。
    〇 自殺の名所として広まった東尋坊
    この断崖は、高さ25m位で、火山活動でマグマが固まった堆積岩層が海水で浸食されたものとされている。 松本清張の推理小説の中、東尋坊で自殺する箇所があり、それ以来自殺の名所として東尋坊の名が一躍有名になったと聞く。
    白山信仰の拠点であった平泉寺(現白山神社)は、 延暦寺の末寺として平安時代末期には平泉衆徒6千坊と言われるまでに勢力を伸ばした。 東尋坊の名の由来は、その中に粗暴な東尋坊という僧がいて、 仲間の僧たちから酒を飲まされてこの断崖化から投げ込まれたという伝説がある。 入江が一番深く垂直に際立っている「大池」と呼ばれている崖を覗きに数人が足を運んだ。 小刻みに刻まれた火山岩を一歩一歩用心しながら近づいたが、 高齢のため柔軟性が失われている膝と腰がなかなか思うように動かず危険を感じた。 こんな筈ではなかったと身体の老化を痛感した。
  4. 旅の終わりに
    (1)新幹線か航空機か
    北陸新幹線が開通して、金沢まで2時間で行けるようになった。便利になったものだ。
    航空機に場合、羽田へ行く時間や発着等のタイムラグを考えれば、乗車容易な新幹線の方に軍配が上がる。 それに、多人数の場合は、座席で談話しながら楽しめるのがよい。
    遠距離の場合は、やはり航空機かな。料金は、両者とも余り差が無くなっている。
    (2)旅先のそれぞれの歴史や風習を観察するのが楽しい。
    旅立つ前に司馬遼太郎の「越前の諸道」を読んだ。 曹洞宗 道元、白山信仰や加賀一向宗等北陸の宗教動向や朝倉家と信長の戦い等戦国時代の歴史が詳しく書かれている。
    熟年の旅の先々も司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズを読み事前知識を得て、その地域を観察するのが楽しかった。 特に出雲へ行ってから、日本の古代史に興味深くなって、謎が多い日本誕生の神話や天皇とまつわる人の動き等について、 諸説を説く様々な学者や作家の本を求めた。海音寺潮五郎は、資料を丹念に調べあげ説くのが特徴である。
    推理作家だった黒岩重吾が描く古代史や松本清張の歴史ものは個性があって面白い。
  5. 写真集
     
      
    兼六公園:噴水前
     
      
    千里浜:砂浜海岸を走る車
     
      
    永平寺正門
     
      
    永平寺堂内
     
      
    一乗谷朝倉家遺跡門前
     
      
    東尋坊記念碑前にて
     
      
    東尋坊大池の断崖
     
     
     
     
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    • アップデート:28/10/10     [Return]